山あり谷ありの人生、
ずっと調子が良いこともないし、
永遠に悪い状態が続くことも
ないわけですが、
人生の辛いときに体験したものって、
きちんと昇華できていれば、実は
人生で最も大切な宝物になるものです。
単純に、苦労するからわかることがある
という昭和な価値観からではなく、
そこに自分が抱えてきた魂の課題
みたいなものが凝縮しているからです。
差し出されたそういうものに
嫌々対応していれば、そんな学びを掴み取る
なんていうこともないのでしょうが、
そこでできることを精一杯やってみたときに、
その後のステップアップにつながるような
何かを獲得していることってありますよね。
とんでもないアクシデントに見舞われた
としても、それにどんな風に対応したのか
という実体験が、世の中を変えていく
きっかけになることだってあるし、
深く心が傷ついたとしても、
そういう自分を再び復活させていく
そのプロセスで得た体験が、その後
同じような経験をした多くの人を助けていく
道を拓くかもしれません。
ただ辛かった、苦しかった、忘れたいだけでは
魂の課題も卒業できず、心の傷は癒えないまま
ずっと残り続けて辛いだろうと思います。
その時代、その体験を黒歴史のままに
しておくのは、とてももったいないことです。
確かに、人によっては悪いことは重なるもので、
心身共に、極限まで追い込まれることも
ありますね。
もう訳も分からず、意識も体からほぼ
抜けた状態でふわふわ、何とかその場を
生きていた、ということもあるでしょう。
けれど、そういうときほど、
しっかり自分の体の中にいて、
自分自身と、人生から逃げ出さないことが
とても大切です。
なぜかというと、
人生を生きる力と導きは、
自分自身の深奥からやって来るからです。
自分自身がら退避してしまっていては、
その場を生き抜く力も得られず、
導きからも切り離されてしまいます。
地獄のような辛い状況に踏みとどまる
ということは、なかなかにキツイことです。
それでも、自分から逃げ出してしまっては、
舵取りをするはずの主体が現場にないまま、
翻弄されるしかなくなってしまいます。
だから、状況がキツイものであるほどに、
相当に覚悟しないといけないだろうし、
肚を決めなければいけません。
不平不満にエネルギーを漏らすくらいなら、
その状況の中で自分が為すべきことに
集中して、最善を尽くします。
最善を尽くしながら不平不満を言うことが
できないように、やはり不平不満を言うことは
逃避であり、単なるガス抜きなのでしょう。
ガス抜き自体が悪いとは言わないけれど、
自分のエネルギーの使い方がその状況において
適切であるのかどうかは、良く見極めることです。
たとえば、場合によっては、その状況から
撤退するのが適切であると判断するケースが
あったとします。
そのときに、
不平不満でダラダラとガス抜きを
していたとしたら、撤退の判断ができず、
自分にとって適切でない状況に長々と
不本意ながら縛られ続けることに
なるかもしれません。
また、主体的に撤退の判断をして
退出する場合と、逃げ出したいがゆえに
逃避する場合とでは、
その意味合いも全く違いますし、
同じくその場から去るのだとしても、
どのように去るのか、という部分でも
かなり質的、内容的に違ったものに
なるでしょう。
もう過ぎ去ったことだから、
と体験に蓋をする方は多いですが、
未消化な体験はいくら頭で終わったこと
にしても、そのエネルギーは
違和感を持ったまま、体の中で生き続け、
人生の折々に様々な影を投げかけます。
前に進みたいのに、なぜかわからないけれど
いつも足を引っ張られる、と言うような場合、
そこに未完了の過去のエネルギーが
影響していることがあるのです。
ここに向き合っていくことは、
終わった過去を蒸し返すことではなく、
今まさに現在進行形の状況に対処すること
なのです。
そしてこれらに対処することは、
単にマイナスが消えるだけではなく、
さらに今の自分から飛躍していくための
大切なカギを得るプロセスにもなります。
逆に言えば、本当に前に進むためには、
ここにあるカギをちゃんと受け取っていかないと
進めないばかりか、その先で対応できない
ままの自分になってしまう、ということです。
だから、人生に差し出された
そのステージごとの課題を丁寧に受け取り、
クリアしていくことが大切なのです。
辛かった時期に向き合うのは確かに
苦しいことですが、やればやっただけの
ご褒美はちゃんとやって来ますよ。
今の自分にできる分、少しずつで良いので、
当時の自分を見捨てず、大切にして、
傷を癒し、差し出されていた学びを
丁寧に拾っていきましょう。