感情解放ワークでは、よく
諦めは感情の蓋ですよ、ということを
お話します。
何かしらの願いを持ちつつも
それが叶わないとき、叶わない苦しみを
抱きながら生きるのは辛すぎるので、
人は諦めてその願いに蓋をするのです。
そうすると、叶わない苦しみを
感じないで済みます。
けれど、願い自体が消えたわけではないので、
蓋の奥では、抑圧された願いのエネルギーは
完了することなくくすぶり続けています。
よく、諦めることと受け入れることを
混同される方がいますが、
こういうエネルギー的な構造からみると、
両者は全く別の状態だとわかります。
諦めることは、叶わなかった状態を
受け入れているわけではないんですね。
ただ蓋をしているだけです。
そこには、叶わなかった口惜しさな悲しみ、
無力感や怒りなど、諸々の気持ちが
統合されないまま、残っています。
もし本当に受け入れられたのであれば、
こういう気持ちのエネルギーは
完了してクリアになっているでしょう。
完了していないということは、
そこに見るべきものがあると
ワークでは見ます。
いかに辛かろうと、
それに直面する必要があるわけで、
どんな耳触りの良い理屈を貼り付けようと、
それは逃避でしかありません。
何故願いを抱きつつ叶わなかったのか、
何をするべきだったのか、
するべきことがあったのなら、
なぜできなかった、しなかったのか、
そもそもその願いを抱いたのは
なぜだったのか、何かの代償や責任転嫁
ではなかったか、
何を見ることができていなかったのか、
気付けなかったのか、受け取れなかったのか
などなど、
願いが叶わなかった、という一事に
差し出されていた人生からのメッセージを
受け取って、応答しなければいけないのです。
それを、様々な理屈をベタベタ貼り付けて
いかに自分を納得させて収めようとも、
不完全燃焼の感は拭い去ることは
できないでしょう。
願いは、必ずしも叶うものでは
ないのかもしれませんし、
叶うことが最善ではないときも
あるのでしょう。
願いが叶っても叶わなくても、
いずれにしてもその事実から
何を受け取るのか。
人は、受け取ることから
次の歩みを進め、成長していく
ことができるのだと思います。
受け取らない人は、
いつまでも同じところを
ぐるぐるしますね。
私自身、
受取下手な方だと自認していますが、
難なく受け取れることもあれば、
どう受け取ればいいのか、
何を受け取ればいいのか
さっぱりわからないこともあります。
そこが弱いところ、苦手、死角
ということなんでしょう。
誰にでもそういうものはあるし、
それがあるからこその個性だったり
唯一無二のオリジナリティが
現れてくるわけで、この世界の多様性にも
繋がっていきます。
それらの死角、苦手を克服していく道は、
人それぞれにやりやすい方法があるだろうし、
ひとつではありません。
自分にはどんな道が合っているのかを知るには
いかにアドバイスを受けようとも
最終的には自分自身に問いながら、
自分で思考錯誤していくしかありません。
実は、この自分に問うプロセスこそが、
超えていくことよりも重要で、
結果はおまけみたいなところがある
と私は常々思っていますが、
自身に問うて自分の道を拓いていくことが
できなければ、その先に行ってもやはり、
その感性を身に着ける学びが
繰り返されるような気がします。
人間、一番大きな蓋こそなかなか
気付けなくなっていたりするものですが、
それは、その蓋が人生の大前提
になっているからです。
それを取り除いてしまうとしたら、
これまでその蓋の上に積み重ねてきた
全てが覆ってしまう。
だから、しばしば蓋だと分かっていても、
それを変えてしまうことには躊躇や
抵抗が起こるわけです。
けれど、蓋をそのままにしていては
もうどうにもその先に進めない
というときも人生にはあって、
否応なく直面させられることが
ありますね。
そのときに、生皮を剥がすように
めちゃめちゃ痛みを伴いながら
無理やり変革に突入していくか、
周到に準備しながら、
場合によってはサポートなども受けながら
ソフトランディングしていくか、
色々ありますけれど、
やらない、どうにか避けるというよりは、
いつやるかの問題で、どんな風に
着地していくのかを前向きに
デザインしていった方が、
その後の歩みもスムーズだろうと思います。
いずれにしても、
自分がただ諦めているだけなのか、
本当に受け入れているのか、
今一度、振り返ってみると
気付くことがあるのではないでしょうか。