これまで、自分の中心に関して
たびたび書いてきました。
それは、物理的な肉体の中心のことではなく、
自分というこの存在の霊的、精神的、肉体的な
レベルのすべてを含んだ中心のことです。
感情解放のセッションのときは、
ご本人がこの中心を取れるかどうか
しばしばチェックするのですが、
意識がなかなか中心を取れない時は、
必ず何らかの干渉を受けている
と言えます。
その状態のままでは、
どのようにこの人生を生きたらいいのか
根本的にその指針を受け取る感覚に
支障をきたしているため、魂の導きに
繋がることができません。
そこでどんな障害が起こっているのかを
掘り下げ、修正していくわけですが、
入り込んでいる様々な存在に
出て行ってもらうとか、
エネルギー的なインプラントを外す、
引っかかっているスピリチュアルな
契約の類を外すなど、色々やります。
ただ、最も大切なのは、
こうした異物を取り除いた後、
その人自身が本当に自分の人生を
引き受けて生きる肚が決まることです。
ここが決まっていないと、
自分の人生に戻ってくることができません。
それは、たとえて言うと、
ペットボトルの蓋のスクリューが
噛み合わないまま無理やり
ねじ込もうとしているようなもので、
正常な機能を果たさないのです。
自分の人生にストン!と肚落ちするのは、
このボトルの蓋が正しく締まって
しっかりはまっている状態とでも
たとえたら、わかりやすいでしょうか。
自分が在るべき時に在るべき場所で、
正しく為すべきことを為している感覚は、
こういう状態なんですね。
自分の中心を捉えると言っても、
人によってその深さはそれぞれで、
やっと触れられるようになったくらいの
レベルもあれば、もう少し深くはまって、
自身の深奥から来るエネルギーが
こんこんと湧き出している状態もあり、
さらに深くなれば、
深遠なエネルギーの海まで到達する
こともあるでしょう。
ただ、そこに深まっていくにつれて、
意識の中の不純物も浮上してくるので、
こういったものの処理ができないと
深まりません。
人によって、それがうまくいかなくて、
あるレベルのところでザワザワして
すぐに引き返してしまう人もいます。
本当は、せっかく浮上している
そのザワザワに直面できると
良いのですけれどね。
深まっていくつにれ、
そこで浮上してくるのは
その人の最も根源的な恐れです。
そしてそれに直面していくことで、
自分自身の深遠な秘密が明かされて
いくでしょう。
逆に言えば、深海の水圧のような
巨大な圧がかかるフィールドで己を保てる
くらいのレベルに達していないと、
そうした深遠な秘密には、到底
辿りつけないのでしょう。
面白いことに、
そのように自身に直面し続けていると、
体の中のチャクラやエネルギーラインが
特定の行法などをしていなくても、
様々反応し、変化していきます。
そういうのを見ると、
行法と言うのは、そうした特定の反応を
起こすための定石を体系化したもの
と言えるのかもしれません。
ヨガのアーサナや様々な行法を学ぶとき、
私はいつも、これらの一連の動作は
どんな反応を起こすためのものなのか、
という視点で見ることが多いのですが、
型は、ある特定のエネルギー状態を
再現するものであるのなら、
それがどれだけ再現できているのか、
どのレベルでそれが起こっているのかを
見ていくと、達人の達人たるゆえんが
わかるのではないか、と思っています。
自分の中心を捉えられるようになるのは、
そういう存在の秘密に至る、
入口なのです。
そして、自分がその中心にはまっていない
のであれば、その状態で何をしようとも、
前に進むことも何かが改善することも、
多分、根本的には無いのではないかな、
と個人的には思います。
何かをするのであれば、
そこをしっかりはめるための
ものであるべきです。
それがはまるのであれば、
手段は何でもいいのだろうし、
場合によっては、物理的には
何もしなくても、しても、
どちらでも良いときさえ
あるのかもしれません。
繰り返して書きますが、
ぴったりと、自分自身にハマるのは、
本人だけです。
入り込んだ存在や、
遠隔操作しているような存在では、
それは絶対にできません。
人生の真の主こそが
それを生きるべきだし、
それ以外の存在は、いかなる理由があろうとも、
他者の人生を生きるのは邪道です。
サポートをしているのと
乗っ取っているのは全く別のことです。
他者の人生に干渉するくらいなら、
己の命をなぜ全力で生きないのでしょう。
己の本分を果たし、
自身の命の流れに戻るのが
本道でしょう。
他人の人生に入り込んでいる存在は、
今すぐ自身の人生に戻って、
己の真の力を取り戻すのです。
それが、もっとも楽に、
最高のパフォーマンスを
挙げる方法なのだから。