日頃、人と会うとセッションの時には
特にそうですが、それ以外の場面でも、
自然にその人のエネルギー状態や
意識の使い方などに
注意が向いてしまいます。
職業病みたいなものなのでしょうけれど、
全体的なエネルギーバランス、重心、
死角、癖や質などを何となく捉えて、
そこから、必要に応じて
そうなっている理由を読み込んでいきます。
もちろんこういうことは、
プライベートでいつもやっている
わけではなくて、ご本人も了承している
ような場面で見ていくわけですが、
深く読み込んでいくとなると、
必然的にその人の在り方の根幹部分を
指摘することになるので、
セッション以外ではあまりしませんし、
読もうとしなくてもわかってしまうこと
についても、敢えて口に出すことは
余程のことがない限り、しないように
しています。
それは、プロとして最低限守らなければ
ならないエチケットだと思うし、
本人が求めてもいないのにそういうことを
するのは、他人の家に土足で踏み込む
ようなものだと思うからです。
とは言え、私も未熟者故、
そういうことも以前はやってしまった
ことがあったな~という反省はあります。
まぁそんなこともありつつ、
他者の在り様を見ていくのは
とても勉強になります。
たとえば、
エネルギーの重心が上に上がりすぎる
というようなことでも、物理的に
何かしらの修練で修正できることもあれば、
もっと別のレベルに原因があって
上がってしまっていることもあります。
一般に、エネルギーの重心が上過ぎるのは、
要はグラウンディングが弱い
ということであり、
この世界に生きること、根付くことへの恐れが
ネックになっていることが多いです。
(それがすべてではありませんが)
これを物理的な修練で克服していこう
と思うのなら、自身の恐れを理解したうえで、
その恐れに直面できる肚を養うような
意図をもって修練をするとかしないと、
ただ漫然と物理動作だけ繰り返しても、
相当な回り道になりそうな気もします。
強靭な精神力は、肉体ともリアルに
連動しているのは事実だと思うので、
肉体面からアプローチするのも、
確かに、非常に有効ではあります。
ただ、そのアプローチが有効になるには、
肉体面と精神面が相互に連携が取れている
状態を作るということが大前提です。
バラバラで機能しているのでは
ダメなのです。
単独での機能が優れていても、
総合的に機能していなければ、
実践では役に立たないからです。
ですから、
修練は実戦でどんな動きや働きを
可能にするためのものなのかを
イメージしながら積むことが
肝要だと思います。
感情解放ワークではしばしば、
自身の最も弱いところ、きついところに
意識を向けていくことをしますが、
核心に近づいていく途中で、
意識がホワイトアウトしてしまう
ケースが良くあります。
あるいは、そもそもその方向を
向くことすらできないとか、
向くことができてもそのまま
固まっているとか。
その状態からいかに核心に近づいていく
ための工夫ができるか、というときに、
精神力が問われるのです。
精神的な力は、概念ではありません。
具体的な、リアルな行動のための力です。
意識を保てるギリギリのラインを
識別し、そこに踏みとどまる力だったり、
そこから己の様々な状態を逐一捉えて調整し、
一歩二歩と核心に歩み寄る動きを
意識を保ちながら導く力だったり。
単なる気合と勢いの根性論の話ではなく、
もっと精妙なレベルの調整能力なのです。
そして、そういうレベルで自分を観察
できるようになると、精神的にも肉体的にも、
自分が克服すべきものの本質が
わかるようになるのだと思います。
自分自身の意識深くに潜っていくにつれ、
巨大な水圧に押しつぶされるが如くに
そのプレッシャーに耐えきれなくなったり、
噴き上がる精神の不純物に揺らぎ、
自分を保てなくなることがあります。
そのプレッシャーになお耐えて、
どこまで自分を観察し続けられるかとか、
揺らぎながらもその状態で
ブレを修正しながらさらに深く
潜っていけるかなど、
ギリギリの状態からさらに
自身の限界に挑戦していくことができると、
人よりも一歩二歩、抜きんでていくことが
できるでしょう。
修練をしていても、
このことにみんなが気付くわけではないし、
気付いても、必ずしも挑戦し続けて
行けるわけではないからです。
また、人から指摘されても
それを糧にできる人もいるし、
明らかに教えてもらっているのに
さっぱり理解しない人もいます。
私自身、言えた立場ではありませんが、
本来は、人に指摘される以前に
気付いて修正できるようなものの見方、
在り方ができるように
修練すべきなのでしょう。
とは言え、誰しも必ず死角はありますから、
指摘をされたら、着実に糧にしていく
感性は育てていきたいですね。