真実は癒しのプロセスにおいて、
非常に大事なものだけれど、
時にそれは劇薬でもあるということを
以前書いたことがありました。
真実がなぜ劇薬になり得るのか。
私たちはしばしば、偽りの上に
自身の世界を構築して、
際どい平穏を享受しているからです。
その際どい平穏を失いたくないが故に、
自身の真実を生きることを
拒絶する人も少なくありません。
感情解放のセッションにおいては、
その偽りの平穏を放棄することと
癒しと解放は引き換えになります。
偽りの世界を放棄せずして、
癒しを得ることは不可能なのです。
なぜなら、今感じているその生き辛さは、
まさにその偽り故に生じているもの
だからです。
癒したいです、抑圧した感情を
解放したいです!と意気揚々と
言っていたとしても、
では自身の真実を生きること、
偽りによって得ているあらゆる恩恵を
放棄するだろうか?と問いかけると
すぐにはYes!と返せない人も多いです。
実際それらは切り離すことのできない
絶対条件ではあるのですが、
そこを認識せず結果だけを欲しがっている
ことがよくあります。
セッションでは、その乖離を埋めて、
享受していた偽りの恩寵を手放しても
大丈夫な自分で在ることができるよう、
様々なことをしていきます。
長いこと自身に真実を抑圧して生きていると、
それが当たり前になってしまって、
失ってしまっていることさえ
忘れ果てていたりします。
というか、
思い出すことは都合が悪いので、
徹底的に厚い壁を築き、視界をぼやかせ、
自分で自分を誤魔化すんですね。
それはひとえに生き伸びるため
だったりしますが、それはもう
その辺の詐欺師を軽く凌駕する
鮮やかなお手並みです。
ではここで言う「自身の真実」って、
一体何のことでしょうか?
感情解放ワークにおいては、
本当に自分が感じていたこと、
本当のところ、求めていたこと、
求めていなかったこと
が基本になります。
自分がこんな気持ちだった、
こんな風に感じたというのは、
誰が何と言おうと、それは
変えようのない真実です。
たとえば、
何かを食べて、これ美味しくないなぁ
と感じたとして、別の人があなたとは
違う意見を持ったとしても、
あなたが「美味しくないと感じた」
ということは周囲の意見とは関係なしに
成立する真実なのです。
それを、隣の人が「これ美味しい!」
と言ったから、自分の感じたのは
違うんだ、と書き換えるのは
自分に嘘をついたことになります。
そして、それを元に自分の言動を
変えたとしたら、それによって
構築された相手との関係性などは
偽りのもの、ということになります。
こういうことを続けていくと、
自分が本当は何を感じ、
何を求めていたのかさっぱり
わからなくなって、
自身の生きる指針がぐちゃぐちゃに
混乱してしまいます。
なぜ自分を偽らなければ
ならなかったのか。
自身の真実を取り戻していくためには、
そこを見て行く必要があるのです。
もし真実を生きてしまったら、
周囲から総スカンを喰らって
仲間にに受け入れてもらえなくなるとか
徹底的に攻撃されて傷つけられるとか、
大切な人に迷惑をかけてしまうとか、
何かしら、体験したくない出来事と
それに伴う不快な感情があったのでしょう。
自分を偽るのは、ほとんどが
そういうものを避けたいという動機が
ベースになっています。
それを受け止めることが
難しかったからこそ、自分を曲げ、
歪めて偽りを選ぶのですね。
であるならば、
真実を取り戻すには、
その辛さを引き受けられる自分
である必要があります。
そこを上手に受け止めて
通過させる術を知らなかったので、
当時は嘘をついて逃げるしか
なかったわけです。
セッションでやるのは、
できないと思っていたそのことを、
できるように導くことなんですね。
それができたら、
もう自分を偽る必要はなくなります。
自分の自尊心を回復して
パワーを取り戻したところから、
以前とは違った行動をする
新たな扉を開くことができます。
逃げなくなったあなたは、
もう逃げるしかなかったあなたとは
違った道を歩み始めるのです。
だから、
自分の真実をいきることができる
というのは、本当に大切なこと
なのです。
人によって、
それがそう簡単ではないことも
あるでしょう。
けれど、どれほど困難であろうとも、
自身の真実を生きなければ、
健全な自尊心を持つことはできません。
どこか表面的なつじつま合わせで
済ませたとしても、深いところの違和感は
拭い去ることはできないでしょう。
今の自分の枠組みの中でどうにかしたい、
というのが現実的なのかどうか、これから
自分がどういう道筋を辿るべきなのか、
参考にしていただければと思います。