人生、生きていれば苦しいこともあり、
その苦しさが苛烈であればあるほど、
何とかしてこの苦しみから逃れたい、
と思うものです。
そこで私たちは、
様々な方法でこの耐え難い苦しみを
免れる方法を編み出します。
感じる感覚を閉ざしたり、
現実を認めなかったり、
無かったことにしたり、
現実を、何とか思うようにさせて
コントロールしようとあらゆる手を
尽くしてみたり、
正気を失って、狂気の意識で
何もかもわからない状態に
してしまうとか、
肉体から意識体を別の領域に
脱出させて、現実の社会から
避難してみたり、
肉体を滅ぼすことで、この人生を
終わらせることに手を下したり。
まぁ、色々な方法がありますね。
けれど、これらのどの手法を使っても、
結果的にはその副作用は大きく、
苦しみを先延ばしにするくらいが
関の山です。
そして、先延ばしにしたとしても、
苦しみはなくなるわけではなくて、
新たに別の苦しみという利子を生んで
結局はその代償を支払うことから
逃れることはできないのです。
だったら、さっさと元本の支払いを
した方がいいに決まっていますが、
そこは人情、
この苦しみを生きてしまったら、
とても耐えられない。自分が壊れてしまう
という恐怖から、
なかなかそれを受け止められず、
逃げることしかできなくなるのです。
けれど、その苦しい状況の中で、
もし自分が壊れずに通過していく
方法が分かっていたとしたら、
その選択も、違ってくるのでは
ありませんか?
逃げて先延ばしにするのではなく、
直面して、ちゃんとその状況を通過できる
自分を体現することは、
現実に対する無力感や無価値感を癒し、
自尊心を取り戻していく
きっかけになるでしょう。
逃げている内は、どんなに言い訳しても、
本当に自分を信頼したり、
自身の生きている世界を信頼し、
愛することはできません。
たとえその苦しみが生じたそのときは、
自分の一部を切り離したり
閉ざしたりすることで、
自分を守る以外に術がなかったとしても、
ずっとそのままでいることは、
自分を傷つけ続けていることになります。
いつかは、切り離した自分を
再び取り戻して、統合していく
必要があるのです。
たとえそれが、人生をまたいだとしても、
次の人生で、それが叶わなければ、
またその次の人生で、
必ず失った自分自身を取り戻さなければ
なりません。
それを、自分が蒔いた種を刈り取るとか、
ツケを払うと言ってしまえば、まるで
自分が被害者のように感じてしまいますが、
そうではないのです。
失った自分自身を取り戻し、
本当の生きる力を復活させる
祝福されたプロセスなのです。
だから、マイナスをゼロにする作業
なのではなく、マイナスの分をプラスに
する以上の、素晴らしい転換であり
変容です。
多くの人が、
自分の本当の力であるところの
部分を切り捨て、封印したまま、
自分には力がないと思って
外から別の力を移植しようとします。
でも、その力と自分の在り方は、
本来ではないと思います。
アチューメントや、様々なパワーアイテム
等を使ったとしても、自分自身を通して
それらを使うのです。
決して自分をおろそかにし、通り越して、
力やアイテムを使ってはなりません。
そうでないと、力に溺れ、
アイテムを使うのではなく使われ、
道を外れていきます。
様々な方のセッションをさせていただいて、
みなさんそれぞれ、唯一無二の
とてもユニークな在り方を
されていらっしゃいます。
けれど、どんな在り方をされているにせよ、
今ここに在る自分自身を猫マタギして、
何者になろうとしても、その行く先は
必ず虚であろうと思います。
極めるべきはこの自分自身であり、
この入り口を通して無限の宇宙や
ワンネス、叡智、愛などを
体験していくのです。
それは、決して退屈しない
探求の旅路でしょう。
生きる喜びを
生き生きと体現していくのも
この自分を通して
実現していくわけですから
その自分を通り越して、
一体何を体験しようというのでしょう?
故に、
苦しくて、自分を見失っているときほど
逃げてきた自分自身に戻るように。
受け入れがたい、否定したかった、
あの自分自身に真摯に直面し、
言い訳を止め、事実を受け取るのです。
実はそれこそが、
苦しみを昇華させる道であり、
本当に求めていた自分を体現する
道でもあるのです。
多くの人が、遠回りするけれど、
自身の真実に、どれだけ誠実でいられるか。
その道をひたすら歩むことの価値に
どれだけ気づけるか。
人生に近道があるとしたら、
ただこの一本のみなのだろうな、
と、そんなことを思いました。