弱さと優しさを混同してる人って、
結構いるんじゃないでしょうか。
強く在ろうとするあまり、
自分の中の優しさを否定して
心を固く硬直させてしまったり、
優しさを他者の中に見て、
軟弱だと軽蔑してみたり。
でも、弱いことと優しいことは
イコールではありません。
本当に強い人ほど、
心の内には溢れんばかりの優しさを
湛えているものです。
そして、本当に優しい人は、
真の強さをしっかりと持って、
ものごとの本質を見据えています。
真の強さのない表面的な優しさは、
共依存的な馴れ合いや独善を生み、
真の優しさのない形ばかりの強さは、
己の弱さに背を向け、逃げ続ける心を
冷酷さという鎧で覆い隠し、
そしてまた
傲慢さで大切なものを見抜く目を
盲目にさせます。
ここで言う優しさとは、
慈悲と言い換えることができる
かもしれません。
他者に本当に優しく在るには、
己のどうしようもない弱さに直面し、認め、
受け入れる苦しさを昇華できていなければ
なりません。
自分が弱いことの苦しみを、
骨の髄まで知り尽くしているからこそ、
他者の弱さに対し、慈悲の心を持って
それを昇華させていく道を示し、
導くことができる。
どんなに打ちひしがれていようとも、
その人の中に埋もれる可能性を見て、
己の弱さに押しつぶされずに
立ち上がれ!前を向いて進め!
と決然と言い放つことができる。
その言葉を放たれた人は、
そこに自身の可能性に関する真実と
深い慈愛の眼差しを感じるから、
自分の本当の力を思い出し、
奮い立つのです。
己の弱さを昇華させていない人が
どんなに格好の良い言葉を並べてみても、
そのように人の心を奮い立たせる
力はありません。
自分の本当の可能性を少しでも
感じとったなら、その可能性を
現実のものにしていく歩みが始まります。
頭でわかっただけでもダメだし、
一時、感傷的に奮い立っただけでも
昇華できたことにはなりません。
自分で自身の可能性を汲み上げる
そのプロセスを、自分のすべてを使って
歩み切るのです。
それが、自分だけの、オリジナルの人生です。
あなたが拓き、歩んだその道が、
後に誰かが続く道になるかもしれません。
いつ果てるとも知れない暗闇の中、
夢中で歩んでいるときは、
自分ではその歩みの意味を、
本当に分かっているわけではないでしょう。
でも、目の前にやるべきことがあるのなら、
結果を考えずに、ただひたすらに
やったらいい。
自分で、自身の道を殊更に暗くすることなく、
胸を締め付けるような閉塞感の中でも、
落ち着いて、深く呼吸をすること。
自分自身を置き去りにして
逃げ出すことなく、肚で現実を受け止め、
どっしりと、自分に留まること。
浮足立って、人生の現場である
自分から逃げ出してしまうと、
恐れに飲み込まれ、前後不覚、
我を見失います。
弱い状態にあるとき、
人はこういう状態になっているんですね。
そして、足元をすくわれて行く。
だから、撤退など状況に適切に応答
することはあっても、自分自身から
逃げ出してしまってはいけません。
こういう、惨めさや悲しみや情けなさや
不甲斐なさ、口惜しさなどなど、
あらゆる心折れるような気持ちが
噴き上がってきても、
それでもそれらを見つめ続け、
歩みを止めずに進む中で、
あなたは知らぬ間に、
深い慈悲を湛えた強さを
身につけて行くのです。
決して、
惨めさや悔しさ、悲しみを感じず
それらを知らないことが強いのでも、
優れているのでもありません。
本当に弱い者が、どうして
深い失望や悲しみ、惨めさを味わってなお、
人生を前に進めることができるでしょうか。
失望すること、惨めさを感じること、
無力感に打ちのめされること、悲しみ、
口惜しさなどを感じること自体を
恥じることはありません。
それは、断じて恥ずべきことではない。
ただ、それを感じた時に、
自分がどう在るかに
注意深く在るように。
いかに自分や他者を欺いても、
自分から逃げた後ろ暗さは
どこまでも追いかけてきて、
自尊心の根を腐らせます。
表面だけ、調子よく辻褄を合わせた
つもりでいても、それが真の輝きを
放つことはありません。
誇り高く生きることは、
虚栄心を満たすこととは違います。
真に強く、優しく、
誇り高く在るように。