人間の苦悩の奥深くを見つめていて
思うのは、大抵の苦しみの奥にあるのは
無力感と無価値感、惨めさや絶望といった
感情ではないかということです。
そしてまた、これらの感情は、
人が横道にそれていくときに
必ずそこにあり、そのきっかけを
作っています。
だから、人が本道を外れたときに
戻ってくるためには、これらのきっかけ
となった感情のエネルギーをしかと捉え、
適切に処理する必要があります。
そこが押さえられれば、
人はぐずぐずに崩れ去った自尊心と
再び溢れる力の感覚を自身の内に
取り戻すことができます。
幸せになりたくて努力しているはずなのに、
深いところで自身が幸せになることを
許していない人がしばしばいますが、
自分が尊いということや愛されていることを
頑なに拒絶するとき、その人の中では
何かしら、自分をどうしてもそうは思えない
後ろ暗さがあるものです。
自分で胸を張って愛されてもいい、
自分は尊い存在だと言えるようになるには、
その後ろ暗さの正体を明確にし、
それに向き合い、尊厳を回復するための行動を
たとえ死ぬほど辛かったとしても、
しなければなりません。
そうでなければ、
どれだけ死んで生まれ変わったとしても、
心の負債は清算されずに持ち越され、
やはり自分が幸せになることを、
自分自身が許せないでしょう。
誰かが許さないのではなく、
自分自身が許さないのですね。
感情解放のセッションでは、
しばしば心の奥深くに厚く封印された
そうした「後ろ暗い」出来事の扉を開いていく
作業をします。
魂に刻まれた、向き合うことのとても辛い
ストーリーの数々。
できれば無かったことにしたい、
逃げ出したいような出来事。
その記憶を浮上させるときには
常に心の痛みが伴います。
さすがにそういうものは
するっと出てくることは稀で、
その部分だけどうにも厚い霧がかかったように
掴めなかったり、そこに意識を向けるだけで
心臓がドキドキしたり、頭が痛くなったり、
みぞおちに嫌な感覚が浮上したりと
冷静ではいられません。
それでも、ヒーリングのエネルギーを使ったり
しながら少しずつ気配を辿っていくと、
本人の進むべき方向性への意志が定まっていれば
やがてそれは見えてきます。
かつて自分が何をしてしまったのか。
何から逃げて来たのかが。
自分の弱さを憎む人は、
必ず何か自分の中で逃げてきたものがあります。
そういう人は、強くなりたいと必死で
自分を駆り立てていますが、
本当に強くなるには、逃げてきたものに
きちんと向き合って受け止めることが必須です。
そこがないと、どれだけ努力をしても、
空回りして自身の無力さに打ちのめされる
出来事を経験するでしょう。
逃げてきたものを本当に受け止められたなら、
もうその自分は弱い自分ではなくなります。
自分の弱さを直視し、その苦しみを
甘受できる人は、決して弱い人ではないからです。
そして、その人は自尊心を抱くことを
自分に許すことができるようになります。
これはもう理屈ではないのですよね。
おごり高ぶらず、謙虚に弱さと強さというものを
自分の体感を通して知るからです。
この確かな感覚は、頭で理解するだけでは
決して身につくことはありません。
ただ、実践を通してのみ、理解され、
肌で知っていくものです。
そして、自身の弱さを通して強さを知ることで
自分の人生を、しっかりと地に足をつけて
歩む感覚ができてきます。
頭でっかちに空回りするのではなく、
着実に自分の人生を前進させている
感覚があるでしょう。
そしてその感覚とともに、
外側に向きがちだった意識を
内側に向け、自分自身との対話を
深めていきます。
じっと自身の深奥に意識を向けたときに、
こんこんと溢れる力に触れるように
なっていくでしょう。
この感覚がないとき、人は劣等感や優越感、
無価値感や無力感に苛まれ、外道の力に惑い、
無力になっていきます。
どんなに頭で言い聞かせ、整理納得させても、
この自身の深奥から溢れる力を知らなければ、
必ずまた無力感に苛まれて深い葛藤に
戻っていきます。
全ての人生の葛藤は、
この力との分離にあると私は思っているのですが、
全ての存在にとって、自身の本当の力を
知っているというのは、健全にその存在の
本分を全うするには必須だと思います。
自分に向き合って自分を知ることは、
この力に触れていくためにすることだ
とさえ思えます。
何を身に着けるよりも、
何を手に入れるよりもまず、
自身の真の力に触れるように。
自分は決して無力ではないと、
言い聞かせたり信じようとする必要もないほどに
それを「知る」ように。
そうすれば、あなたはもう、
道を踏み外すことはなくなります。
あなたの歩みが清々しく、美しいものであるように。