嫉妬の炎に焼かれるなんて言葉が
あるように、嫉妬の気持ちって、
すごく苦しいですよね。
自分には無いものを相手は持っている、
というどうしようもない妬ましさと
相手のまぶしさの一方で、
持たざる自分の惨めさと悲しみと。
その両方の苦しさで焼かれる
その心の苦しさ。
その思いを持て余して、
ねじれていく自身の在り様を、
どうしようもないのかもしれません。
「鬼滅の刃」の中でも
十二鬼月最強の鬼・黒死牟(こくしぼう)が
人間だった時に剣技ではるかに勝る
弟・縁壱に対して、並々ならぬ嫉妬心を抱き
鬼になるきっかけとなっています。
(なんか鬼滅づいてますが、お許しあれ。笑)
そして、死してなお、決して勝つことの
できなかった弟の影は、無惨配下
最強の鬼となった後も彼を苦しめ続けます。
こうしてみると、嫉妬というのは
どれだけ人を歪め、苦しめるものなのか
と改めて思います。
このような言いようのない苦しみから
逃れるには、どうしたらよいでしょうか。
根本的には、自分の本分を知って、
自身の無力感というのが幻想である
ということを本当に理解することが
必要かな、という気はします。
「自分には無い」という思いにどっぷり
浸っていると、「自分にあるもの」は
全く見えなくなってしまうんですよね。
黒死牟(巌勝・みつかつ)は、
どうやっても追いつくことのできない
剣技の才能を持つ弟を前に、
「自分には無い」という思いに
嫌というほど打ちのめされます。
武家の跡取りであったにもかかわらず、
弟を越えられないという事実は、
葛藤をさらに深めたことでしょう。
けれど、もし彼がその無力感や惨めさ、
屈辱感を認め、受け止めて昇華
させることができていたなら、
剣技の才ではなく、人徳で人望を得て
弟とは違った在り方で家を治め、
家督を継いでいく可能性も
あったのではないかな、と思います。
それも、剣の道以上に決してやさしくはない、
苦しい修練の道だったでしょうけれど。
でも、「自分には何も無い」わけでは
なかったのですよね。
自分で、有るものを切り捨てて、
無いと見える世界を作っていったわけです。
そして、その世界で修羅の道を行き、
自滅していった。
人生の重要ポイントで、
決定的な選択を誤ったわけです。
何をもってして誤りか、と言えば、
人生の目標設定を誤ったと言えるでしょう。
巌勝は、剣技で弟を越えることを
目標にしてしまいました。
そこが破滅の道の始まりです。
弟を越えれば、自分の惨めさや屈辱感も
払しょくされ、面目も保たれ、
すべてはうまくいく、と思ったのかもしれません。
けれど、それは絶対的に叶わない目標でした。
そうなったとき、もはや鬼にでもなるしか
道はありませんでした。
けれど、剣技の道で弟を越えることではなく、
越えられなくても家督を継いで
戦国の世を生き抜いていくことを
目標としていたなら、別の戦略を取ることも
できたでしょう。
そうできなかったのは、高すぎた
プライドのせいでしょうか。
目標設定の違いで、閉ざされる扉も
あるのですよね。
セッションでも嫉妬に狂う人物が
登場することはしばしばありますが、
共通しているのは
「極度に狭いものの見方への固執」と、
そこへのエネルギーの集中と暴走
かな、と思います。
まるでブラックホールのように、
その固執している一点にエネルギーが
ど~っと吸い込まれて行くので、
理性で押しとどめられないんですね。
その一方で、本人もその流れの中に
没入したがっている感もあります。
正論も理性もそんなものはかなぐり捨てて、
堕ちていく恍惚感にも似た感覚に
身を委ねたい、みたいなところが
あるのかもしれません。
嫉妬に狂っている人に
どれだけ諭しても無駄なのは、
こういう構図があるからなのでしょう。
そのような強烈な嫉妬のエネルギーから
脱出したければ、その流れを反転させる
必要があります。
少しずつでもその苦しいエネルギーを
受け止め、チャージを小さくしていくことと、
こういう状態の人はしばしば
善からぬものに魂を売ってしまっている
ことも多いので、そういう契約を解除
していくプロセスが必要な人もいます。
こうしていくと、段々正気を取り戻して、
冷静さが戻ってきます。
そうしたところで
改めて世界を見直してみると、
今まで固執していた狭い枠の中では
見えなかった、別の可能性の扉を
見ることができるようになります。
そうして、選択をやり直すんですね。
自分には、別の道がある。
何もないわけじゃない、と、
そこに自分の本分を見るのです。
そういうところからすると、
無いと見える在り方というのは、
自分の本分ではないところを見ている
と言えるかもしれません。
自分の本分を見出した人は、
もはや無力ではありません。
地に足をつけて、人生が前に進んでいる
実感を味わいながら、己の成長を
楽しむことができます。
嫉妬に苦しむ人は、
自分自身の真の力を、
自身で見出す努力をするべきだろうと
私は思います。