先日、弱さについての記事を書きましたが、
自分の弱さを受け入れられず、
他者の弱さも拒絶してしまう自分を
変えたい、とおっしゃる方は多いです。
けれど、
どうしたらそういう自分を変えて、
自分も他者の弱さも受け入れ、
寄り添えるようになるのか、
その道筋を勘違いされている方は
多いような気がします。
自分や他者の弱さを見るとイライラして
ついきつく当たったり、何としても
変えてやろうと強圧的になってしまったり。
そういう自分にハッと気づいて、
これじゃいかん!とイライラを
ぐっと抑圧して寛容なふりをして見せたり
不快感から逃げるように、見ないふりをしたり。
これでは、
根本的には何も変わっていませんよね。
まず、自分や他者の弱さに触れた時に
自分の中に浮上する、何とも言えない
不快感をしっかり捉えましょう。
これが、弱い人を見ると
いても経っても居られずに、
拒絶行動に駆り立てている
エネルギーの正体です。
これを統合するんですね。
これが残ったままでは
いくら表面的に寛容なふりをしても、
何かの拍子で抑圧のタガが外れれば、
一気に抑えていたものが噴き出すでしょう。
私ばっかり我慢させられている!
と被害者妄想が爆発したりね。
この不快なエネルギーをしっかり
受け止め、統合できれば、
弱さを見てもそこまで心を
かき乱されなくなります。
そうなって初めて、
弱い人の心の奥を深く見つめ、
寄り添い、様々な状況に適切に接することが
できるようになるのです。
ですから、寛容であるには、
抑圧ではなく、どれだけ自分の内に
トリガーされ、浮上する苦しさを
統合できているかということが
カギになります。
自分の不快感が弱い人のせいなのではなく、
完全に自分自身の要因であり、
その苦しさに自分で責任を持つことが
できたときに、
「弱さという苦しみ」の呪縛から
解放されるんですね。
弱いことは、もはや苦しみには
ならないでしょう。
これは、自分自身の弱さに対して
不快になるのも、同じです。
不快感はただ不快感であり、
自分が弱いからではないのです。
何ものの責任にもせず、シンプルに
ただ受け止めればいいだけですね。
また、寄り添うということも
私はよく言いますが、これも
自分の内に浮上するものがクリアに
ならないと、できることではありません。
寄り添うには、相手の痛みなどの気持ちに
触れていなければならないからです。
自分の内の統合されていない感情が
トリガーされていたら、相手の気持ちに
ニュートラルに触れることなどできませんし、
まともに見ることすらできないでしょう。
寄り添うというのは、
相手の気持ちに触れて、
相手と同じところに巻き込まれずに
いることができている状態で、
それが苦しくてジタバタしたり
巻き込まれて一緒にその感情に
溺れたり、
上から目線で「可哀そうに」と思う
のとは違います。
溺れてしまっては、
自分のマインドの中に取り込まれてしまって
相手とは離れ、置いてけぼりになります。
また、上から目線では、本当に
その痛みは理解できないでしょう。
だから、相手と同じところにいて
その気持ちに触れても溺れずに
いられるようでないと、
寄り添えないのです。
それができると、
黙って側にいるだけでも
人は安らぎを感じ、励まされるでしょう。
寄り添ってくれる人の中に
同じ苦しみがあり、なおかつ
自分の苦しみをその人が知っていてくれて
いることがわかるから。
同情という偽善に溺れていないのが
わかるから。
心の痛みや動揺に蓋をしていては
できない所以(ゆえん)です。
そういうものを感じる感覚を開いたまま、
受け止められる人だけが、できることです。
感覚を閉じた状態で強くなろうと
する人が多いですが、
結局、それだと感じることを恐れている、
つまりは、それで動揺する自分は
そのままということになりますから、
本当に強くなったわけではないのです。
そういう強さは、一見とてもすごそうに
見えますが、相手と分離しているので
ややもすれば足元からずるっと
持っていかれてしまいがちです。
だから私はセッションでは、
できる限り感じる感覚を開き続けます。
そして、相手に触れることで
自身の中に湧き起こる、あらゆる感情や
感覚に気づき、感じ続けています。
そうした方が、巻き込まれないんですね。
逆説的ですけれど。
ただ寛容であれ、寄り添おうと思うだけではなく、
寛容であるため、寄り添える自分になるために
何ができている必要があるのか、
しっかり押さえて実践していきましょう。