かつて自分がしてしまった失敗や過ちに、
ず~っと後ろめたさを感じていたり、
自分を責めてハートが固くなっている人、
結構いらっしゃいますね。
感情解放ワークにおいては、
自責の念や後悔は、居ても立っても居られない
心のざわつきを思考で紛らわせるための
逃避なので、
どれだけ後悔して自分を責めても、
相手への贖罪になんて一ミリもならないし、
一歩たりとも前に進むことなどない、
とお伝えしています。
後悔や自責の念を終わらせたければ、
自分のやったことにしかと直面し、
悶え苦しむような辛さを受け止めること
からしか、完了や癒しは始まらないのです。
けれど、そんなことはとても恐ろしくて
できないし、認められない!と逃げるから、
何年も、何十年も心に刺さったとげが
抜けないで苦しむのですね。
どうしてそれをしなければ
完了できないのかというと、
相手の視点に立ってみるとわかります。
傷つけられたその人は、
しばしば、傷つけた相手に
自分と同じ思いをさせてやりたい
と思うことがあります。
それはなぜかというと、
自分が味わった苦しみを相手にも
体験させて、自分が何をやったのか、
心底理解させたいからなのですね。
こういうことを、お前はやったんだぞ、と。
本人が、こんなに苦しい思いを
他人にさせていたのかと理解できれば、
やってはいけない、
やらないようにしようという戒めがなくても、
そもそも、そんなことをしようなんて
思いからして起こらないでしょう。
そして、
被害者の苦しみをしかと理解したうえで、
「すまなかった」という謝罪があったとき、
初めて被害者の苦しみが癒えていくのです。
その理解のない謝罪など、
自分が苦しみから逃れたいだけの
実に利己的な思いから発したもので、
癒しの力はありません。
ただ、被害者の痛みに触れるには、
人を傷つけてしまった加害者としての
動揺や苦しみを受け止める段階が
その前にあります。
加害者に苦しみなどあるのか、
と思う人もあるようですが、
他者への共感能力を閉ざさない状態で
自分がその立場に立ったとするなら、
わかるのではないでしょうか。
共感能力を閉ざした状態なら、
いくらでも傷つけた相手を平常心で
見ることもできるでしょう。
けれど、開いた状態で
傷ついた相手の心に触れるのは、
それなりに動揺や苦しみが
生じるでしょう。
それから逃れたいがゆえに
共感能力を厚く閉ざしている人もいますが、
いずれにせよ、それはただの逃避です。
けれども、
病理的にそもそもそういうものが
機能的に欠落している人という方に
今まで私はお会いしたことはないので、
そういうケースは何とも言えません。
少なくとも、
私がこれまでセッションさせていただいた
方たちの中には、閉ざしている人はいても、
そもそもそういう能力が元々ない
という方はいなかったように思います。
というわけで、こういうケースは
ここでは除いて考えます。
加害者としての心の動揺や痛みを
まず受け止めなければ、被害者の姿など
まともに見られないのです。
加害者の痛みを多少なりとも
受け止められたときに、
やっと相手の顔が見られるようになり、
さらに相手の痛みに触れることが
できるようになるのです。
加害者というのは、そういう意味で、
自身の心に刺さったとげを抜くために、
二重の苦しみを受け止めていかねば
ならないのです。
これは、
いつか必ず通らねばならない道であり、
やるのかやらないのかではなく、
いつやるのか、という選択しかないのです。
こういう心に刺さったとげというのは、
人生をまたいで持ち越していくことがあり、
セッションでも、血を吐くような思いで
悶え苦しむ他の人生が現れることもあります。
今まで、何人もそういう方を見て来ましたが、
いかに苦しもうと、肚を決めて逃げずに
直面していけば、
そのような苦しみも、長いこと自尊心を
くじいていた心の枷も外れて
清々しい誇りが戻ってきます。
お顔から後ろめたさの陰が消え、
姿勢までもしゃんと伸びて美しくなります。
人がこういう尊厳を取り戻していくとき、
いわゆるカルマの清算のようなことが
起こっているんじゃないかな、
と私は思っています。
心にとげが刺さったまま、
真に自尊心をもって輝くことは
できません。
卑屈さを持ちながら、
自分を大切にすることも
できないですしね。
自分のやったことを認める位なら、
死んだ方がマシだ!って人も
中にはいますが、
死んで終わりじゃないですからね。
自ら、無間地獄に堕ちないように。
地獄に堕ちる覚悟があるのなら、
誇りをもって生きる覚悟を決めた方が
余程充実すると思いますが。
まぁ、選択ですけれどね。