誰だって、自分のことを良く見て欲しいと
思うところがあると思います。
相手が、良いイメージを持ってくれたら
嬉しいし、悪いイメージを持ってしまったら
あたふたしつつも、苦しくなったり
悲しくなったりするでしょう。
けれど、
そんな取り繕ったイメージの奥から
ぐぐ~っと自分の醜さを引き出してくれる
存在って、とても貴重だな、と
思うことがありました。
自分って、こんなに醜かったんだ~、
でも、確かにそう言うところ、
あるよね~って思いながら、
忘れていた自身のカケラ君の感触を、
しみじみ感じていました。
大人になって、随分そのカケラ君を
感じる機会は減ったのですが、
小学生の頃、私は何をやっても劣等生で、
劣等感の塊でした。
勉強も運動もダメで、
性格もわがままでひねくれていたから、
いじめられっ子でもありました。
みんな普通にできることができなくて、
自分だけできない、何をやっても
ダメなんだって、
いつも悲しさと悔しさ、
どうにもならないやるせなさを抱えて
毎日楽しいことなんて見つけられない
重苦しい日々を送っていました。
そんな慣れ親しんだ気持ちが久しぶりに
トリガーされて、あぁ、まだこんなところにいた!
と懐かしくなりました。
やるせない気持ちに飲み込まれそうになりながら、
いつもここに引きずられてきたんだ、と
気付くことができたので、じ~っと
できるだけカケラ君を受け止めるように
しました。
悲しさも、失望感も、悔しさも、惨めさも、
投げ出したくなるような衝動を必死で抑えつつ、
投げ出さずにその苦しさを味わい続けました。
これまではいつも、
この不快な感情に反応して
拗ねたり投げ出したりふてくされたり
していたんですよね。
もう、ちゃぶ台ひっくり返したいくらい
それはそれは不愉快な感情です。
私は、こういう自分が大嫌いで、
嫌で嫌で仕方がありませんでした。
勉強も運動もできてクラスのみんなに
優しくて、容姿も可愛い先生のお気に入りの
クラスメートのようでない自分に、
自尊心が持てませんでした。
それから、中学、高校、大学と進んで
色々頑張ったので、歪んだながらも
多少は自尊心を持てるようになったのですが、
あの惨めな自分は、ずっと忘れていたけれど、
私の中でくすぶり続けてたんですね。
よかった。気づけて。
今の自分だったら、
あの耐え難い諸々の気持ちを
毎日死にたいとか思わずに、
ちゃんと生きてあげられます。
苦しかったなぁ。
悲しかったなぁ。
それをそのまま、
どうにもならないことを、
どうにかしようとしないで
今、できていない自分であるという事実を
受け入れます。
受け入れてみて気付いたのは、
できていないという事実に、
強烈に抵抗していたということ。
こんなにも認めていなかった
ということに、初めて気づきました。
いつか、できるようになるかもしれない、
できるようにならなくちゃ、
という未来への希望に逃げていて、
足元の今この瞬間から外れていました。
だから、ずっとできないままの自分が
リピートされ続けていたんですね。
認めたくない事実が突き付けられたとき、
人は強烈に反発してしまいがちですね。
でも実はそのときこそが、
それまでの自分を越えていく
分岐点なのだと思います。
事実を認められないうちは、
そのことによって傷ついた自分は
そのまま持ち越されます。
たとえ、物理的にできるようになった
としても、内側に残された惨めさや悔しさは
そのままなので、それが再現される状況を
再生することになるんですね。
事実は厳然と目の前にあるのであり、
それを認められない心の在り方が、
どこか本来あるべき状態ではない
ということを示しています。
つまり、認めたら浮上するであろう、
今まさにスルーしているその苦しさを
避けないで生きることが
軌道修正の道なわけです。
状況や人によって、
それができるようになるまでに
何年もかかることもざらにあるし、
生涯、できないことだってあるでしょう。
リカバリーできた人は、幸いです。
できない自分を受け入れたら、
できないままの自分になってしまうのではなく、
そこからちゃんとスタートを切れるんですね。
それは、今この瞬間からしか、
始めることができないからで、
今この瞬間を飛び越えて進めようとするものは、
必ずどこか空回りします。
人生の何かに空回りしていることがあるのなら、
今を飛び越えて先に進めようとしている
どうしても認めたくないことがないかどうか
振り返ってみると良いでしょう。
そこが、結構カギだったりしますね。
変なプライドを降りて、
真実を生きることを選ぶようになったとき、
人生の流れは大きく変わるのです。