できないことをできるようにしていくには、
基本的に、この世界では段階があります。
思いもかけず、助け船が出て
そういうのをすっ飛ばして
奇跡的にできるようになる
っていうこともありますが、
そういうのは最初から期待するようなこと
ではないので、自分の中で十分に
それができている現実が思い描けるように、
つまり、それが実現可能であることに
確信が持てるようにする段階が
あるわけですね。
内面的な課題においては、
まずは自分が課題を認識するところから始まり、
それをクリアするために何が必要なのかを
知る段階があり、
そしてそれを実際に実行していくために、
必要な力をつけていく段階があります。
たとえば、職場にどうしようもなく
苦手な人がいるとします。
その人と同じ空間で仕事をすることが
なぜこれほどまでに苦痛なのか、
その原因をその人のせいにしないで、
自分の中の問題なのだと
認識するところが第一歩。
それから、自分の中の具体的に
どんな要素がその苦しみの元になっているのか
ピンポイントで特定していく段階があり、
その根っこの部分に、長年抑圧してきた
幼少時の辛い体験の記憶があったとします。
母親がものすごくヒステリックで、
いつもこの人のことを責め立てていた
トラウマがあるのかもしれませんし、
父親がものすごく怒鳴り散らしたり
暴力を振るう人だったりした
のかもしれません。
そこに、怯え、悲しみ、とても傷ついたまま
固まっている感情のエネルギーが
たくさんあったとしましょう。
その長年封印してきた感情のカケラ君たちを
お迎えに行く必要がある、と分かったとして、
すぐによし、行こう!と思えるかどうか。
恐ろしさに気持ちがすくみ、
気が遠くなる自分がいるかもしれません。
その状態から、どうやったら
安全にカケラ君をお迎えに行き、
癒し、統合していけるのか。
気が動転し、意識が保っていられないような
状態にならずに、お迎えに行くだけの
力をつけていく段階があるのですね。
こういう内面の力はスポーツと同じで、
やはり一朝一夕にはつきません。
ここは奇跡を期待するところじゃなくて、
積み重ねるところです。
人によってセンスのあるなしは
あると思いますが、
積み重ねたものは、容易には崩れませんし、
そうして培ったものは人生を越えて
持ち越していける宝でもあります。
だから、最初からできる人は、
そういう持ち越した宝があったのでしょうし、
それは別の人生での努力の賜物なのでしょう。
できないことをできるようにしていくのに、
こういう段階をわかったうえで、
自身の現状をしっかり見てやるべきことを
積み重ねていける人が、最後には
達成するのですよね。
奇跡は確かにあると思うけれど、
それは自身の何かしらの力が
あるラインを越えて届いたからで、
ただなんでも楽に済むことを求めた結果、
起こるようなものではないように
私は思います。
まぐれ当たりのようにして起こったことは、
下駄を履かせてもらっただけで、
自分の実力とは別のものでしょう。
いつでも再現可能なくらいの
実力でなければ、身についたとは
言いませんものね。
あることを突き詰めていくと、
それがその他の様々なことのエッセンスにも
通じていたりすることは良くありますが、
そういうものは、
そのことだけに使えるのではなく、
人生の様々な場面で生きてくるものなので、
自分にとって得意なことやりやすいことを
ググっと伸ばしつつ、その感性を生かして
周辺にも応用していくことで、
その人なりの独自の在り様を作っていくことが
できるでしょう。
様々な方法論やメソッドは数多あるけれど、
結局はそれをどこまで、
この自分の心と体の特性に合わせて
消化したか、
そして、独自の世界観にまで発展、
昇華させたかが、身についたということの
一つの目安だと思います。
こういう風に昇華させていくのには、
やはり、他の誰とも違う、この自分で
試行錯誤しながら歩んでいく道が
どうしても必要なのだと思います。
それをやってきた人と、
どこかから取っててつけてきた人の
違いが分かるくらいの目は
持っていたいもの。
自分でそういう道を歩んでいたら、
それはおのずとわかるはずですよね。
だから、もがき、葛藤することや
うまくできなくて悶々としている
その体験も、無駄ではないのです。
まぁ、中途半端に悶々としないで、
もがくならしっかりもがいて、
転んでもただは起きぬ図太さで
その中から何かを掴みとって
不敵な笑みを浮かべつつ
歩んでいきましょう!笑