自分が何が好きで、何が嫌いか、
何を愛し、何を憎むか、
何をしたくて、何をしたくないのか。
こういうことを自分が知っているって、
本来は当たり前のはずなのに、
感覚や感性が麻痺してしまって
わからなくなっている人、多いですね。
それを知る感覚は、
人生を導く羅針盤のようなもので、
とても大切なものなのに、
特に日本の教育では、
それを育て、磨くよりは
徹底的につぶして、
自分で感じられず、考える能力も奪い、
受動的に言いなりになって、
反論もしてこないような人間を
量産することに重きが置かれている
ようでもあります。
何十年もそういう教育のベースの社会に
適応するように生きてきて、
どうにか社会人としてやってきているのに、
今度はいきなり自分らしさを出してとか
クリエイティブに、とか言われても、
おいそれとは対応できない、
ってところかもしれません。
それでも、これからの時代は特に、
こういう感性を使っていくのが当たり前
というか、それが閉じたまま生きていくのは
ものすごく大変になってくるような
気がします。
だから、今の学校教育に適応できない
子供たちの多くは、異常なんじゃなくて
とても正常な感性を潰すことが
できなかったからこそ、
正常だともいえるのではないでしょうか。
今を生きる子供たち、若い人たちはもちろん、
昭和のベビーブームに生まれた
私くらいの世代の人も、またそれ以前に
生まれたすべての人たちも、
私たちはみな、自分が何をしたいのか、
したくないのか知っているべきです。
そして、その欲求を、
愛をもってこの世界に表現しながら、
喜びとともに生きるのが人生
であるべきだと思います。
毎日、やりたくもないけれど
やらなくちゃいけないたくさんのことに
忙殺されるなんて、
今の社会ではそれを我慢して
過ごすのが当たり前になっているけれど、
そもそもそんなものは狂ってる!
って思いませんか。
確かに、人生には辛抱強さ、忍耐力は
必要だということに異存はありません。
けれど、自分の命を消耗させて、
生ける屍のように喜びのない時間を
ひたすら重ねる抑圧に、発展と成長が
あるのでしょうか。
私たちは、もっと自分の感性、感覚を
大事にすべきだとしみじみ思います。
抑圧していなければ、
適応できない環境というものも
あるでしょう。
これまでの世界では、
そういう環境に適応しなければ、
生きていくのはとても難しかったのです。
けれど、時代は大きく変わろうとしています。
私たちはもっと自分の人生を楽しみ、
祝福していいのだし、
世界はもっと美しく、優しくてもいい。
そういう世界を創造することは
可能なのだと、今一度、
自分の力を思い出すべきだと思います。
感情解放のセッションしていても、
自分が何を感じているのか、
感じていないのか、わからなくなっている人、
たくさんいらっしゃいます。
それでも、少しずつ本来の感覚を
取り戻していって、感じていても
ちゃんと対処できるような自分を
育てていくにしたがって、
目に力が戻り、
オーラに輝きが増してきます。
その人本来の温かな魅力が滲み出て、
ことさらに盛ったりアピールしなくても、
この人の側にいたいと思わせるような
雰囲気を醸し出すんですね。
みんな、本来はそんな風に
元から素敵なんです。
何かブランド品を身に着けたり、
高い化粧品を使ったりしなくても、
はるかに人を引き付けるその人固有の
生命のエネルギーが惜しみなく
放たれているのですから。
誰かが刷り込んできた幸せの形に
当てはまらなくたっていいのです。
自分が心の底から幸せであるのなら。
自分の人生が、美しく、調和に満ちて、
祝福できるのなら。
生きる意味を知りたがる人は多いけれど、
もしそういうものがあるのなら、
きっと幸せに、人生を、この世界を
祝福することかな、と思います。
命は、祝福そのもの。
美、そのもの。
ただ、苦しむ人は、
自分でそのことを拒絶し、
認められないのかもしれません。
私たちは、すでに祝福されていたし、
そこから離れたことはなかったけれど、
頑なに、本人だけが違う、と
嘆くことにしがみついているのでしょう。
以前の私だったらそう言われても
決して受け入れられなかったと思うのですが、
なんだか今はするっとこのことが
事実として認識できます。
自分がわからなくなっている人は、
まず、やりたくないことを止めること。
そして、やりたかったけれど
我慢していたことをやってみること。
ここから、負のスパイラルが反転して、
本来の生命力が戻ってきます。
いきなりワクワクすることをしよう
としても、よくわからないという人は、
ぜひやってみて!
命をすり減らす無駄な我慢はもうやめよう!
できることから、踏み出してみたら、
あなたの世界は変わっていくでしょう。