感情解放のセッションをするとき、
私はその方の意識が何をどんな風に
捉えているのか、というのを
エネルギー的に読み取りながら
誘導しているのですが、
人によって、
感情に触れると一口に言っても、
おっかなびっくり触れている人もいれば、
全く触れられていない人もあれば、
どっぷり味わい浸るように触れる人も
あります。
そういう在り方ひとつとっても、
その人の日々のものごとに対する
捉え方のベースに在るものが
そのまま表れているので、
とても興味深いです。
ワークでは、感情に触れて感じていくことが
とても重要なのですが、普段私たちの多くは
あまり自分の感情を真正面からしっかり感じて
受け止めている人はかなり稀だと思います。
それでも、
苦しんだり悲しんだり嬉しかったりは
しているのですが、大抵はどこか
意識が体から逃げて、ぼんやりとした残照を
感じているだけのことが多いです。
ワークでは、意識を自分の体の中に
逃げずにしっかり置くことが重要なのですが、
セッションではこれがきちんとできているか、
何度もチェックしながら統合作業を進めます。
この辺りは自分ではなかなかチェックできない
ところなので、ブログや本だけでは
お伝えしきれないところではあります。
意識がなかなか体の中に定まらない方の場合は、
その原因を掘り下げて対処していく過程が
あります。
基本、そういう状態になるのは、
この世界が辛くて危険なところだと感じていて、
ここにいたくないという思いがあることが
原因です。
この体から抜ければ、そういう辛さは
柔らかくマイルドに感じられるので、
しばしば抜けている、あるいは
常に半分抜けたような状態で
過ごしている方が多いのです。
けれど、そうであっても
話しかけられれば受け答えできるし、
体も動くし、それなりに感情らしきものも
感じられるので、自覚のない人が
ほとんどでしょう。
けれど、こういう状態で生きていると、
現実感は薄くなり、どこか人生が他人事
のように感じられ、活力がなくなります。
生きてる意味って何だろう?って考えて
意味を求めようとするのも、実はこんな状態で
今この瞬間の人生を十分に生き切っていないから
なんじゃないかな、と思います。
今を夢中で生き生きと生きていたら、
生きる意味なんてそもそも求めないんじゃ
ないでしょうか。
生きていなくちゃいけない、マインドが
納得できる理由が欲しいのでしょうね。
でも、どれだけもっともらしい理由を
教えられても、生きることの意義なんて、
マインドが答えられるはずはありません。
命や人生は、マインドの領域のことでは
ないからです。
どれだけ自分のあらゆる領域を使って
人生を味わい尽くすことができるかは、
私たち人間として生まれた存在にとっては
チャレンジだと思います。
この人生には、
素敵なこともたくさんあるけれど、
一方で辛く苦しいこともたくさん
あります。
どちらの体験であっても、
自分のあらゆる感覚や感情を閉ざすことなく、
言い訳せず、在るがままに認め、しがみつかず
それらが自分を通り抜け、
完了していくことを見届けられるかが
人生の生きやすさにつながります。
とかく私たちは好き嫌いが激しく、
えり好みし、あれはいいとかこれは間違っている、
こうであってはならない、こうあるべき、
などとフィルターをかけてものごとを捉え、
それそのものの在るがままで見ることは
ほぼありません。
それが故に、自分の中で意識、無意識的に
ジャッジメントしたその感情・感覚が、
認識から欠落してしまうことが
とても多くあります。
いかにその認識の死角に気づいていくことが
できるかが、ものごとをできるだけ
歪みの少ない在るがままに近い状態で
捉えられるかにつながって行きます。
認識の死角にあった感情や自身の姿が
認識できるようになり、
本当に受け入れることができたら、
その分意識の視野は広がると同時に、
その領域も自在に生きることができ、
その領域のエネルギーも自分の人生に
取り込むことができるのです。
つまり、タブーが多いほど、
人生の領域は狭くなり、使えるエネルギーも
量・質ともに非常に偏った、限られたものに
なってしまうのです。
人物でも、
清濁併せのんでなお爽やかでいる人は、
どこか懐の深さと安心感を見る者に与え、
相手の可能性を存分に表現させることのできる
フィールドを広げます。
どんな自分の側面もジャッジメントされず、
よし、と受容してくれる人の前では、
なんだか素直になって普段は話さないようなことまで
話したくなってしまうのは、そのためです。
自分の中にタブーを作らず、
どんな領域も自在に、かつ適切に人生の活力に
つなげていけるようになるためにも、
特に苦手な感情をマスターすることは
とても有意義なことなのです。