人間関係にも色々ありますが、
無条件の愛の関係よりも、
パワーゲーム(取引関係)でつながっている
という方、多いんじゃないかと思います。
そんなことないわ!これは本当の愛よ!
と思っていても、よ~く掘り下げていけば、
やっぱり相手がいかに自分の欲求を
満たしてくれるのかどうか、
というところが最大の関心事
だったりするのではないでしょうか。
それこそが、取り引きであり、
自分の欲しいものを得るために、
自分が何を差し出しているのか、
よく考えてみたらいいと思います。
そういうつながり自体が悪いとは
言いませんが、
それが本当の愛だと思っていると、
自分にとって都合の良いこと=愛
自分にとって都合の悪いこと≠愛
と認識してしまうので、
本当に自分のためを思ってしてくれた
相手のより高いレベルの厳しい愛の行為の
価値がわからない、薄っぺらな価値観しか
育ちません。
心地良いばかりが愛とは限らないのです。
時に魂が震えるような鮮烈な印象を
残す愛というのは、しばしば
非常に厳しい愛の方だったりします。
かわいいかわいいと猫可愛がりするのは
簡単です。
愛する相手に嫌われるよりは、
良く思ってもらいたいし、
微笑んで欲しいし、
愛されたいのです。
だから、嫌われたくなくて、
相手にとってはあまり良くないこと
と知りつつも、
自分が欲しい相手の微笑み故に、
強い態度に出られない人も多いでしょう。
けれど、本当に深く相手を愛しているとき、
自分のその欲望を超えて、深く相手を見て
その魂が成長し、正しい道に進むように
憎まれ役をあえて引き受けるということも
あります。
深く愛する相手から、心底憎しみの目を
向けられることを引き受けることや、
二度と微笑んではもらえないかもしれず、
その行為の意図に相手が生涯気付かない
ままかもしれないリスクを冒しても
なお、決して譲らない覚悟が
どれほどのものか、
自分の都合からしか愛を計れない
幼い目には、到底考えも及ばぬ
愛かもしれません。
けれど、その幼い目が時を経て成熟し、
より深いところを汲むことができるように
なったときに、
かつて自分に向けられた
あの厳しさの奥に隠された、
計り知れない愛に気づくのです。
あのように、一見横暴に思えるような
振舞いをするのに、どれほど細心の注意を
払って自分を見守り続けていてくださったのか、
その人がどれほど己の弱さに向き合い、
覚悟し、一点の迷いもないほどに
バッサリと核心を射抜く神経を磨いて
来られたのか、
その方の、峻烈なまでの孤独な歩みの
丹精の賜物が、惜しみなく
自分に注がれていた事実に触れた時、
それまでの己の幼さ、未熟さゆえの
誤解が一瞬のうちにかき消え、
ただただ感謝しかなくなるのです。
有難い、という以上に、
何があるでしょうか。
かように未熟で、
花開くかどうかもわからぬ自分に、
何の報酬も求めることなく
それほどまでに尊いものを
注いでくださったことに、
いかに報いることができるのか。
もはやそのような恩は、
自分の中でその愛によって花開き、
成熟したものを、他者に還元していく
恩送りでしか、返せないものだろう
と思います。
そういう愛を注がれた魂は幸いです。
その愛の系譜は、
注がれる魂の器を求めて無限に連なり、
魂を目覚めに導く種となって
その人の中に宿るでしょう。
種は、永い眠りを経るかもしれませんし、
すぐに芽吹くかもしれません。
いずれにせよ、宿された種は、
それぞれの時に、必ず芽吹きます。
肉体が何度滅びようと、
愛の種は、滅びることがありません。
そのように永遠を宿す種であるがゆえに、
目先の利害に左右されることが
ないのです。
愛の種が芽吹き、花開いた魂は、
ただ真っすぐに、相手の中に宿った
永遠の愛の種だけを見ています。
だから、今、相手が理解せずに
憎しみを向けてこようと、
そんなことは些細なことなのです。
必ず芽吹く種への確信が
厳しい愛の表現のベースにあるとき、
その人の心の辛さや迷いは
晴れるでしょう。
そのような愛を注がれるに値する
器の自分であるように。
また、その愛に気付けるくらいに
成熟するように。
自分にはそんな種は宿っていない
と思う人も、いつぞやの人生で
既に種は宿されているかもしれません。
ただ、自分がまだ気づいていないだけ、
成熟していないだけで、
あなたの中で、種はひたすら、
芽吹きの時を待っているかもしれません。
だから、その種を蒔いてくれた存在に、
今、心からの感謝と、種を育てていく
決意を表明したら良いと思います。
そのとき、あなたの種は、
長い眠りから目覚め、
運命が始動し始めるでしょう。