「自分の殻にこもる」という
表現があります。
自分独自の世界に閉じこもっていて、
外に出てこないで、他者との接触を
避けている様子を比喩的に表した言葉
だと思いますが、
エネルギー的に見るとこれは比喩ではなく、
まさにその通りの状態で、まるで
ガチャガチャのカプセルに入っていて
内的な別次元の世界にいるように見えます。
セッションでこういう状態になっている方を
しばしば見かけるのですが、だからといって、
通常の日常会話とかのコミュニケーションが
できないということではありません。
日常の生活には問題ないのだけれど、
ただ、深く心を通い合わせるような
コミュニケーションとなると、
なかなか思うように満ち足りた関係性を
築くのは、難しいだろうと思います。
なぜなら、その人独自の世界にこもっていて
コミュニケーションするときに通常生じる
エネルギーの循環がうまく起きないからです。
私は良くセッションで、その人がどんな風に
人とかかわっているか、エネルギーの循環や
巡り方をリーディングをすることが
あるのですが、
気心知れた間柄でお互いに通じ合っている
ような関係性の場合は、エネルギーが
心地良く循環していて、
エネルギー的なキャッチボールが
きちんとできているんですね。
けれど、一見はたから見ると
楽しく会話しているような場合でも、
本質的に対話ができていないようなケースでは、
エネルギーが互いに別世界にあるように
分離していて、交わることがありません。
だから、カップルやお友達などでも、
表面的に繕っていても、
エネルギーを見たら一目瞭然です。
自分の殻にこもっている人は、
基本的に、誰か特定の人とだけ
分離しているというわけではなく、
誰に対しても、
そういう状態で接しています。
いわば、デフォルトの状態で
そうなっているんですね。
これは、どんなに表面的には
活発に交流して社交性があるように
見える人でも、心の奥底では
閉じている場合があります。
だから、私がエネルギーを読み取って、
あなたは自分の殻にこもってますね、
とお伝えすると、
全く自覚のない方もあれば、
すぐにピンときて、そんな気がします、
とおっしゃる方もいらっしゃいます。
誰しも、自分の生きる世界に
様々なフィルターをかけて認識している
ものだろうと思いますが、
それでも、おこもりしていない人は、
少なくともこの世界に触れている様子は
私には感じ取れます。
けれど、おこもりしている人は、
この世界から分離して、どこか
別の世界にいるような印象があるんですね。
決してこの世界には触れていない。
自分だけの部屋で、まるでテレビ画面を見て
外界を認識するように、世界を認識している
ような感じがするのです。
人によって、多少その認識方法に違いは
あるのですが、外界と交わっていない感じは
共通しています。
そして、
そうした方々にさらに共通しているのが、
人間関係やこの世界に対して、
非常に高い理想を持っていることが
挙げられます。
とても高尚な思想を持っていらしたり、
美しいもの、素晴らしいものを
志向する傾向が強く見られます。
一方で、それが故にということになるのか、
理想とは違う現実、この世界に対する
深い失望や諦観も同時に持っています。
自身が抱く理想とはかけ離れた
美しくも素晴らしくもないこの現実に
深く失望して、自分の思い描く
安全で心休まる理想郷に自らを避難
させているかのようです。
その状態で、彼らは魂の底から充足できる
理想の体験、パートナーシップなどの
理想の人間関係を追い求めます。
それはある種、非日常の至高体験を
味わわせてくれる麻薬を求める者の如く、
その可能性があると見えれば、
抑えられぬ衝動によって、
自ら喜んで引っ張られて行きます。
それが自分を真実に導いてくれるのだと、
それこそが自分をこの汚れた世界から
救い出してくれる唯一の存在、
道なのだとすがるように。
そういう方たちの、ある種独特の空気感
というものは、本当に気味が悪いくらいに
共通しているのは驚くばかりです。
そういう思いも決してわからぬではないけれど、
彼らが求める理想郷というのは、
この現実の世界を否定したどこか別のところ
にあるのではなく、
この世界に深く触れ、生き切ったところにしか
存在し得ないものではないかと
私は思います。
自分の世界におこもりしていては、
生々しい苦しみからは守られるかも
しれないけれど、
目の覚めるような喜びが味わえる、
求めていたはずの理想郷からも
遠ざかってしまいます。
まずは、天岩戸から出て、
あなた自身の光で世界を照らしましょう。
その光で照らされた世界に触れることこそが
あなた自身の理想郷の創造なのです。
この世界に触れる喜びが
再びあなたの魂に呼び覚まされますように。