自分自身の中に深く抑圧された感情に
向き合うって、勇気要りますよね。
できれば触れたくない。
無かったことにして生きていきたい。
もう終わったこと。
そう思う気持ちもよくわかりますし、
それも一つの選択であると思います。
でももし、かつて封印したモンスターを
統合することにチャレンジしてみよう
と思えたら、それはとても
素晴らしいことだと思います。
人によって、その感情のエネルギーに
触れることは、しばしば、自分を見失うくらい
ものすごく恐ろしいことに感じられます。
例えば孤独。
体の芯まで凍り付くような、また
痛みを伴った生存の危機を感じさせるような
恐怖として感じられたり、
狂気は、まるで脳がそのエネルギーに
溶かされていくが如く、人間としての
アイデンティティすら消え去ってしまうような
制御不能の魔物に様に感じられたり。
とにかくいったんそれに触れてしまったら、
自分が保っていられないような
恐ろしいもの、絶対に触れてはならない
タブーとして、意識、無意識的にも
認識されていたりします。
こういうエネルギーを統合していくには、
制御不能のままではダメなんですね。
だから当然、飲み込まれていてはダメだし、
恐くても、狂いそうでも、
自分の中で起こっていることを
当事者として観察し続けられる
意識のポジションが必要なのです。
ここで重要なのが、
「当事者として」というところで、
端からそれが起こっているのを
他人事のように眺めているのではダメで、
諸々が起こっている渦中にいて
それを体験することが必須なのです。
恐いと、大抵はそこから離れて
眺めたくなってしまうのですよね。
でもこれだと、変容は起こりません。
渦の中に踏みとどまり、触れ続けるだけの
胆力のようなものが要りますね。
感情解放のセッションで、
問いかけに対して、返ってくる答えと
私が読み取っているエネルギーの答えが
違うな~と感じる方は、
そして、響きが割れている。
浮いている感じがするのですね。
あくまで私の感覚であり主観なので、
どう証明することもできないのですけれど。
話が逸れました。
誰しも、最初からパンドラの箱のような
感情の圧力鍋の蓋を一気に開けて、
そのエネルギーを受け止められるわけでは
ありません。
だから、その時の自分の力量に合わせて、
間合いを計り、受け止められる分ずつ
正気を失わないボリュームで
少しずつ受け止めていくのです。
そのモンスターのようなエネルギーに
向き合う自分自身が良く観察できないと
いけません。
ここがうまくいかないと、
途中で意識が飛んで、こっくりこっくり
眠ってしまう、ということが
セッションでもしばしば見られます。
無鉄砲に突撃していけば何とかなる
というものではないので、
あくまで自分の今の器を現実的に、
厳しく見極められる目が鍛えられますね。
こういうことをしていくには、
口先だけ、やります!やっているつもりです!
ではとてもできないのがわかるでしょう。
「やっているつもり」ではなく
本気で「やる」しかないんですね。
けれど、そこに触れ、受け止める
というところに意識が定まってない方も
多いです。
まずは、そこが定まっているかどうか、
確認してみましょう。
そう言うと、しばしば聞かれるのが
「やらなくちゃいけないと思ってます」
という言葉。
これも、頭だけ先走っている言葉で、
分かっているけれど、本当にそれをする
とは言っていない言葉なんですね。
でも本人は、やると言っているつもりになる
トリッキーな言葉です。
こんな風に、言葉にその人の今現在の姿勢が
如実に表れるのですね。
本当に心を定めた人が
その言葉を使うのか。
やりたい。
やろうと思っている。
やらなくちゃダメだと思っている。
私はやる。
言葉の持つ響き、エネルギーの違いが
わかりますか?
どの言葉が、本当に行動するエネルギーを
持っているでしょうか?
そして、これらの言葉を口先で言うとき、
一点の曇りもなく自分の深いところから
言うときの違いも感じて見てください。
こういうところを敏感に感じ取れる
感覚を磨くことは、自分自身の真実に
触れるためにはとても大切です。
一朝一夕には成らぬことですが、
そういうことこそ、大事に育てて
いきたいものですね。