同じ場所で、同じ時間を共有して、
同じ体験をしているはずなのに、
人によって、感じ方、受け取り方が
全く違うことってありますね。
人から言われたちょっとした言葉に
すごくショックを受けて傷つく人もいれば、
同じ言葉を聞いてもなんとも感じずに、
ケロッとしているとか。
これすごく良かったよ~!という
映画や音楽を紹介されたけれど、
自分は全然何も感じなかった、とか。
なぜこんなにも違う体験になるのかといば、
その人の持っている背景が違うからです。
つまり、心の中に持っている傷とか、
耐性や感受性、ベースとなる概念が
違うんですね。
なんでこれくらいのことでここまで
傷ついたり激怒するのか、と端から見ると
ものすごく不思議に思うことも、
その人の中では、とても重要な何かに
触れてしまった、ということなのでしょう。
だから、そういう反応を引き起こした
出来事や人の言動自体がどうこうとかではなく、
あくまでその反応をした人自身の問題なのです。
感情解放のセッションでもこの考え方から、
その人に固有の要素を掘り下げていきます。
もし色々ストレスが溜まって心理的に
追い詰められていったとしたら、
自分はどうなってしまうだろうか?
というような質問もよくするのですが、
ストレスで体を壊して
病気になって死んでしまう、
と答える人もいますし、
鬱になってアルコールに溺れ、
家族にも見捨てられて一人、
野垂れ死んでいくとか、
自暴自棄になって
手当たり次第に人を傷つけ、
周囲を破壊し、射殺される
という人もいるかもしれません。
その人の中から出てくるイメージは
当人にとっては当たり前で
みんなそう考えるだろうと思えるのですが、
実は当たり前ではないんですね。
その答えは、その人固有の何かの要素を
表しているのです。
それは、
魂に刻まれたある体験の記憶であったり、
先祖から受け継いだ強い思いの傾向
だったりします。
セッションでは、そのイメージは
どこから来ているのだろう?
というところを掘り下げていきますが、
そのプロセスは、その人がそのようである
歴史を辿る旅であり、心の地雷を見つけ、
撤去していく作業でもあります。
こういう心の傷=心の地雷がたくさんあるほど
人生は生きにくいものになりますが、
傷が癒え、地雷の撤去作業が進むにつれ
なんであれほど反応してたんだろう?
って自分でも不思議に思うほどに、
同じ刺激が何でもなくなります。
多くの人は、地雷がたくさん埋まった
心の在り様を自分のアイデンティティの
一部として捉えていますが、
それはその人の本質とは別のものです。
だから、如何様にも変わっていくのです。
じゃぁこういう地雷を片っ端から撤去して
行けばいい!と思われるかもしれません。
そうなれば、どんどん軽やかに、
楽になっていくんだから!って。
それがすんなり行けばいいのですが、
あるところに来ると、途端にグズグズと
ぐずり出す、ということもよくあります。
痛い心の傷にもかかわらず、癒したくない、
このまま持っていたい、と思うものも
あるのです。
たとえば、辛い別れの記憶であっても、
その悲しみ、喪失感を癒してしまったら、
大切な人との絆を永遠に失ってしまうように
感じて手放したくない、とか
手痛い失敗の記憶であっても、
それを癒してしまったら、
また同じ失敗をしてしまうかもしれない。
だから戒めとして、持っておこうとか。
戒めの場合は、その失敗に至った
本当の原因まで辿って統合できれば、
失敗をしない自分になるので、
戒め自体必要なくなり、手放すことができます。
痛みを絆としている場合は、
それを支えに今現在生きているので、
支えがなくても自立できる自分を整えることで
痛みの絆は手放せるでしょう。
ただ、後者の場合はより本人の納得感というか、
もういいかな、という潮時のタイミングの
要素も大きいような気がします。
人から何と言われようと、
悲しみに浸っていたいときだって
ありますからね。
悲しみに浸る権利はあるのですから、
好きなだけ、納得するまで
ちゃんと悲しんだらいいと思います。
その人がそのようである、
という在るがままを許すには、
自分の中に、その人を見ることによって
かきたてられるものが統合されている
必要があります。
そうでないと、自分が反応してしまって
その人を変えようとしてしまうでしょうし、
そうなったら見守ることなどできません。
自分も安らかに人生を送り、
他者にとってもジャッジメントされない
安心のフィールドを作るには、
心の地雷撤去作業、必要ですね。