時々刻々、状況は移り変わり、
同時に玉石混交のニュースもわんさか
打ち上げられているけれど、
まぁそれはそれ、ということで
セルフワークに励んでおります。
ワタワタした中で、自分のこれからのこと
なんて決められないし、
そもそもどこに向かうかすら、
見えなくなってしまうから。
まずは自分自身の内なる羅針盤に
しっかりチューニングをしておこうという
算段です。
自分の源には触れられている感覚はあるのですが
まだコネクションが弱いのと、
日常の意識で常時接続できている状態
ではないので、その辺のチューニングが
できればな、と取り組んでみました。
源の導きが、日常の領域にしっかり
満ちるように。
導きと日常意識が分離して
一々切り替えなければならないのは
とても不便なので、ここが地続きになったら
すごく楽ですね。
サロンに見える方の中でも、
スピリチュアルと日常をどう折り合いを
つけたらいいかわからない、という方が
以前は多かったのですが、
そもそもそれらは分けて考えるようなもの
でもないし、相反するようなもの
でもありません。
精妙に呼吸することや、
草木や頬をなでる風を感じながら
自然と対話すること自体、
既にスピリチュアルですからね。
それらが分離しているように見えるのは、
ただ、自分で作り上げた枠組みの幻想
のために気づいていないだけで、
誰しも、霊性の部分を抜きにして
人生なんて生きられないと思います。
私自身は、この仕事を始めてからは
日常即スピリチュアルでしたので、
全然違和感はなかったのですが、
それでも段階的に、自分にとって
霊性の道とは何だろうか?と
問い続けてきたとは思います。
まぁ、時に駆けずり回り、
時に諦めて遠くに放り投げたりも
しましたけれど。。。
そうやって自分なりの立ち位置とか
世界観を構築してきて、
今は何度目かの、さらに深く問い
自分に在り方を統合していく
段階にきているような気がします。
たとえどんな聖者やお釈迦様、キリストが
奇跡を見せ、真理を語ったとしても、
私は自分で神に触れなければいけないし、
自分で見なければいけないのですよね。
そうでなければ、どんな教えも
意味がないわけですから。
これまでの意識では、
人間意識の都合に導きのエッセンスを
如何にして織り込むか、みたいな
在り方だったのですが、
導きそのものを生きる意識で
居られたらいいな~と思って
これを目指しております。
でもそこに、まだ「折り合いをつけ」よう
とする自分が居て、この自分を
どう処理するのか、試行錯誤中です。
案外、簡単に切り替わってしまう
ものなのかもしれないけれど。。。
神が世界を見るように、
私も歪みなく、この世界を見ることが
できるように。
この世界には、そういう状態に至るための
技法が様々伝えられているのだろうけれど、
私は全部、我流でしたね~。
どういうわけか、正統派には
縁がありませんでした。
自分なりの歩みで、運良く出会った師に
見せていただいたものもあり、
けれどもそれはパーツでしかなく、
自分で行間を埋め、余白の意味を見出さねば
なりませんでした。
まだまだ旅の途上ではありますが、
自分なりにいただいたパーツを組み立て、
探求してきた歩みで言えるのは、
探求は、頭でっかちな理論で終わるような
ものではないということ。
それは実際に自身の様々なレベルの
変容を伴うものである、ということです。
目指す状態にチューニングしていくと、
自分の中で引っかかるところもあるし、
捉えられなかったりして
抜け落ちるところもあります。
そういうところが、たぶん魂に刻まれた
カルマなんでしょうね。
丁寧にそういうものに向き合い、
クリアしていくと、次の扉が開いていく。
向き合い方はヨガとか様々なヒーリングや
技法があって、自分なりに何が有効なのか
見つけ出すプロセスもまた、
不可欠な探求の一部です。
手っ取り早く教えてもらいたがる人も
多いけれどね。
教えてもらっても、最終的には
自分で検証する工程は残りますから、
全部お任せというわけにはいきませんね。
自分が探求の主体である、という意識は
絶対に落ちてはいけない部分だと思います。
自分の歩みが正しいのか、そうでないのかは
旅の途上で出会う人たちが教えてくれます。
彼らが伝えてくれる率直な言葉が、
そっちじゃないぞ!とか、
間違ってない。そのまま行け!とか
背中を押してくれるのです。
だから、心配しないで、
やるときは集中してとことん進めたらいい。
しっかり導きの感覚に耳を傾けながら。
あなたの歩みに、最高最善の守護と
導きがありますように。