土曜日は東京では20度を越える気温
だったのに、今日は一転して
都心部でもみぞれ、あるいは雪模様。
(これを書いているときは
前日の夜なのでまだわからない)
何という寒暖差。
しかもコロナであっちもこっちも
自粛の嵐で町はゴーストタウン
と化している。
子供も大人も、この非日常の世界に
戸惑いを隠せない。
これを楽しめている人はいいんだけどね。
不安と恐怖とストレスでいっぱいの人も
少なくないだろう。
こんなときだからこそ、
しばらく声を聞いていなかった
大切な人に連絡を取ってみたい。
元気でいるだろうか?
困っていることはないだろうか?
心細くしていないだろうか?
大したことができなかったとしても、
ほんの小さな心遣いが、
その人の生きる力になることもある。
あなたのことを、忘れていないよ。
どうぞ元気で、幸せでいてください。
そう、心から願っている時もある。
一方で、自分の無力さに、
情けなく、落ち込むこともある。
また、助けを求めて伸ばされた手を
冷たく振り払う時もある。
どれも、同じ私。
矛盾する行動や気持ちが同居しつつ、
それでもそれは私なりの何かの基準があって、
時に慈悲深く、時に冷酷に、
自分でもびっくりするほど、
2面性どころではない様々な顔をする。
でも外面に現れた、一見相反するように見える
自分の顔を、頭でこうあるべきだと考える
理想にねじ込むようなことはしない。
私は、誰かに好かれるために、また
嫌われないようにするために
生きているわけじゃない。
自分の中の、真実の法に従うのみ。
私は、私の人生に責任を持つ。
あなたは、あなたの人生に責任を持つがいい。
そのうえで、私は私が心から手を差し伸べたい
と思う人に、手を差し伸べ、幸せを祈る。
そして、やりたくない援助はしない。
時に私も、誰かに助けてほしいと
思うこともある。
そんなときは、
断られたりうるさがられたりして
心が傷つく可能性も引き受けた上で、
助けを求める。
それで助けてくれれば御の字だし、
断られても覚悟の上なんだから
恨みっこなし。
自分の中の気持ちは、
自分が責任をとるしかないのだ。
それを、誰かのせいにして
恨みがましく思うほどに、
自分が無力で、惨めになるだけ。
ただ、理不尽さ、不当さに泣き寝入りをしろ
と言っているわけじゃない。
自分の気持ちに責任を取ったうえで、
行動すべき時は行動する責任もある
ということなんだよね。
自分には、自分を幸せにする責任があるのだから。
行動すべき時に行動べき方法で行動する責任を
果たすには、まずは自分の気持ちを
責任転嫁しないところから始めないといけない。
そういう在り方の筋を一本通すには、
それに耐えうる軸が必要だ。
その軸は、まがい物やインプラントでは
用に耐えない。
自分自身の真実だけが、
その在り方を支えられる軸になる。
わかるかな?
自分に嘘をつくことの罪の大きさが。
自分に対して一つ、嘘をつくほどに、
自分の真実から遠ざかり、
その一つの嘘を支えるために、
100も1000もの嘘をついて自分を歪ませないと、
その在り方は支えられないのだ。
だから、
今まで自分を支えていたそれらの嘘を
正して、真実を生きる在り方に
転換しようとするとき、
ものすごく大きな構造改革のプロセスを
必然的に通過することになる。
ここに着手しようと思うか
めんどくさいし恐いし気が重いので
スルーするのか。
私自身も、どれだけ自分の真実を
生きられているだろうかと
チャレンジの日々だけれど、
人と付き合う時の基準は
やはりその人がどれだけ
自分の真実を生きようとしているか
ってところで見ている気がする。
別にその人にそうすべきだと
押し付けるわけじゃないけれど、
その人なりの歩みを何も言わず、
側でそっと見守るときもあるし、
あえて遠く離れる時もある。
私も、私の人生を生きることに
私なりに真剣なのでね。
人様の選択にとやかく口出しして
コントロールしようとするほど、
暇じゃないのよ。
あなたは、あなたの人生を生きればいい。
私があなたの人生を生きるわけじゃないから。
そして、あなたが私の人生を
生きるわけでもないのだから。
そこはある意味、
ものすごく私はドライだと思う。
そのうえで、響き合うもの、
認め合うこと、いたわり合うこと、
賞賛、友情、感謝、愛、慈しみ、
リスペクトがある。
そういうベースがないと、
これらは絶対に成り立たないのね。
私の中では。
そしてそれは、
その人の中には絶対にその人自身の
人生を生きるための力がある、
という確信と信頼があるということ。
そのことがね、
私のセッションの基盤なんだよね。
あなたが、自分の人生を自分らしく
生きるように。
そして、幸せに、人生を楽しむように。
こんなご時世だけれど、
愛をこめて。