私がさせていただいている
感情解放のセッションでは、
私個人の力量では難しいな~
という場面に陥った時、
様々な存在に助けていただいてます。
その方に何か信仰があれば、その存在に
助けていただくこともありますし、
特になければ、その方の魂にご縁の深い
存在を呼ぶときもあります。
先日のセッションでは、
ある聖者への信仰をお持ちの方だったのですが、
その方の魂の歴史の中で、とてもたくさんの
ネガティブな気配のスピリチュアルな契約の
コードが読み取れました。
これを一つ一つ解除していくのは
かなり骨が折れるし、その前に本人の意識が
抜けがちで、つるつると逃げては、
自分を保っていられないという、
なかなか厄介なケースでした。
さて、どうしたものか、と思ったところ、
そうだ、ここで聖者のお力をお借りしよう!
とひらめいたのでした。
そこでその方と一緒に聖者に、この状況から
ちゃんと自分自身の人生に戻って、
しっかりと地に足をつけて生きられるように、
と導きを祈りました。
そうして、そこから諸々のプロセスを踏んで
ネガティブな契約の類も解除していった
のですが、
最初の段階で感じられた、
かなりやっかりな状況が、驚くほど
すんなりと整って行きました。
さすが、聖者の恩寵というのは
素晴らしいというか、凄まじいものだな
としみじみ感じたのですが、
これほどまでの根深い因縁の類も、
聖者にかかると、一瞬で晴れていくものなのか
と驚くほかありません。
私の力じゃこんなのは無理ですね。
こういうことが起こるのも、
その方自身が日頃から地道に積み重ねている
ものがあるからだと思います。
日頃のサーダナ(霊的修練)というのは、
積んでいるときは、大したことないし、
こんな程度じゃ何の役にも立たないだろう
なんて本人も思ったりしているんじゃ
ないでしょうか。
けれど、そういう地道な貯金が、
こういう時にぐぐっと
効力を発揮するんですよね。
きっと、守護してくださる神仏や聖者などの
存在は、そういう貯金を使って私たちを
助けてくれるんだろうな、と思うのです。
でもこの貯金って、サービスの利用料のような
概念じゃないですよ。
日ごろからサーダナを積むこと自体が、
その人がそういうサポートを受け取れるように
ハートを開く働きがあったり、
サポートしてくれる存在としっかり
つながれるようにする意識のホットライン
みたいなものを作る作用があったり
するんだと思います。
だから、いざというときに
しっかり効くんですね。
たとえば、
日頃、あまりコミュニケーションもない
人に話しかけられたり話しかけたり、
ましてや大変な時に助けてもらうなんて
し辛いだろうと思います。
けれど、ツーカーの仲の友人とかだったら
声がすればすぐに気が付くし、
向こうだって、遠慮するなよ、
水臭いじゃないか!って
手を差し伸べるだろうし、
こちらもその手を掴みやすいでしょう。
まぁ、受取下手の人はそういう風に
差し伸べられた手も振りほどいて
引きこもっていくケースもありますけれどね。
信仰は、本当にその神仏や聖者などの
「心に触れてナンボ」だと思います。
中には触れないで、遠くて高く、
手の届かないところに奉って
自分の日常や人生から隔絶させている人も
見かけますが、
個人的には、それじゃ本当にその存在の
願いというか、導くところを理解
できないんじゃないかと思います。
だから、神仏にせよグルにせよ、
遠巻きに拝むとか、概念だけで拝んでいては
ダメだと思うのです。
解釈論などの本をたくさん読んで、
わかったつもりになるのも違うし、
誰かに言われたこと、教えられたことを
丸のみして取り込んだだけでも
いけません。
自分で、実際にハートで触れて、
体験しなければ、自分の魂の糧には
本当のところ、なりえないのだと思います。
けれど、多くの人は、それができるなんて
端から信じてはいません。
そういうことは、ごく一部の
限られた人にだけ与えられた特権だと
信じていて、よもや自分がそれをするのだ
という意識すらないのです。
本当にその存在を敬い、愛し、
また大切に思っているのなら、
人生の大半を占める日常こそ
その存在の気配を感じ、
親しくともに過ごす時間としなくて
どうしましょう。
そういう風にして育った心の根っこが、
辛いとき、心が揺れるとき、
自分を見失いそうになったときに、
本来の道に引き戻してくれる
楔であり灯になるのです。
特定の宗教や信仰の対象を持たない方も、
ご自身の内なる神に触れていかれたら
良いと思います。
それは、どこか遠い、別世界のもの
ではないのです。
あなたの命をはぐくむ糧であり、
根を張る基盤なのです。