自分が何を本当に求めているのかを知るのは
刷り込み情報がわんさか入っていて
なおかつ自分自身とのつながりが断絶している
ことの多い私たちには、なかなかに難しいこと
だとつくづく思います。
本当に信じて命を懸けてやってきたことが
実はそう思い込まされてきただけだった
ってこともしばしばあるし、
何となく良さそうだからそうしよう
というレベルから、強固な信念になっている
ケースまで、様々あります。
私自身も、本当に大切なことだと信じて
打ち込んできたことが、後から考えると
まずそれはとても大事なことだと
信頼できそうな人が言ったから、
鵜呑みにしてそうなんだ、
と思っていただけで、
実は自分なりに本当に納得して
それが大事であり、自分にとって
どうしても必要なのだとは思えていなかった
という事実に気づいたことがあります。
だから、それについて挫折したときに、
挫折を乗り越えてさらに求めよう
という気が起きなかったのですね。
自分にとって、必然性がなかったのです。
確かにそれは大事なことなんだろうな
ということはわかるし、それなりに
とても貴重な学びもたくさんありました。
けれど、それ以上ではありませんでした。
私なりに、そこで学んだことの一部は
自分なりに咀嚼して、また私なりの歩みを
進めています。
結局人は、どんなに素晴らしい教えを受けても、
自分が咀嚼できるキャパシティ以上には
受け取れないのです。
私なりの歩みを進めていく中で、
自分のキャパが育っていったときに
かの教えの素晴らしさがわかるときが
来るかもしれません。
でも、今の私には無理だろう
というのはわかります。
どうやっても今の私には咀嚼できない。
だから、咀嚼するための力をつけないと
いけないのですね。
インプラントされた情報は、
本当にそれを消化して自分の血肉にしなければ
異物でしかありません。
けれど、ただ鵜呑みにしただけで、
わかったつもり、自分のものにしているつもり
になってしまうことって、非常によくあること
だと思うのですね。
でも、それは偽物です。
まだ自分の真実にはなっていません。
誰かに、これをすればもっと良くなるよ、
などと言われて、そうなんだ、と信じて
頑張ったけれど結果が出ないで不信を感じる
というのは、
言われたからやっているだけ、ですよね?
本当にそれがそうなのかは、
まだ自分で検証していないわけです。
だから不信を抱く。
本当に自分にとってそれが必要であると
わかるには、何ゆえにそうであるのか、
明確に分かっているはずです。
だから、どういう努力すればいいのかも
理解しているので、言われたから信じてやる、
というのとは努力の仕方が違っているでしょう。
ただ、師弟関係を結んだ師匠の下でする修行は
そこに疑問を挟む余地はありません。
師は弟子の成長の責任を一手に引き受けて
教え導くので、弟子は絶対服従です。
(ただし、反社会的組織になってしまった団体の
グルなんかもいるので、その辺は注意深く
識別しなければいけないとは思います)
けれど、そういう関係でもなければ、
自分は自身の歩みのすべての責任を負っています。
不信を抱くのなら、自分に取り入れた
その概念、教え、信念を根本から
検証しなければなりません。
たとえば、霊性の歩みにおいても
目覚めなければいけないというのは
本当なのか。
なぜ目覚める必要があるのか。
目覚めとは何なのか。
それは本当に自分の人生に必要なものなのか。
こうした疑問について、
古来より星の数ほどの人々が解説した
数多の書をはじめとするツールが記されています。
それらを真摯に学べば学ぶほど、
人生にそうした概念が入ってきて
やがては信念を形成します。
人によっては、それに全人生をかけ、
命を懸けて打ち込むかもしれません。
そうするうちに、何かしら、
その教えの精髄と言えるようなものにも
触れる恩寵もあったりして、
自分なりに、概念を超えた
何か確かなものを自身の内に確立
するでしょう。
そうやって、ようやく教えが血肉となるわけで、
自分だけのオリジナルな何かに触れるまでは、
やはりどんな素晴らしい教えも借り物
でしかないのだと思います。
信念となっている概念でも、
どこか借り物の響きしか感じられない
人の言葉も珍しくはありません。
朗々と、よどみなくそれについて述べるものの、
まだ血肉にはなっていない、異物の響き。
そういう言葉は、人の心を深く動かす
力はありません。
自分なりに咀嚼、消化し、血肉とする。
そこは、必ず自分でしなければいけないことです。
食べたものを誰かが替わって消化してくれる
はずがないのと同様に、ね。
あなたにとってそれは真実なのか。
根本から問わねばなりません。