最近ちょっと色々あって、
それについてワークしていたのですが、
私の中に、まだまだ憎しみや呪いの痕跡が
結構あるものだな~というのを
しみじみ感じていました。
自分自身のいくつもの過去世も
見てきていますが、
清廉潔白の白い魔法使いのようなもの
ばかりではなく、黒い方のも同じくらい
あります。
それが在っての今この私なので、
別にそういう要素を否定するつもりも
隠そうとも思わないのですが、
今を生き辛くする遺産は、
早めに片付けておきたいものです。
それには多分まだしばらくは
かかるんでしょうれど、
ふと気づいたことがあったので、
備忘録としてまとめておこうと思います。
嫌な出来事、嫌いな人、否定したいこと、
受け入れ難いものなど、
頭でどう理屈を考えても、魂の学びの時は
そんなものは役に立ちません。
社会的常識や道徳と言ったものでは
計れないのが魂の意図というもの。
だから、そういうものに向き合うときは、
人間目線のロジックで筋を通すことからは
すっぱり離れたところから見る眼差しが
必要です。
(でも頭で、これはカルマの解消だとか
学びだとかいう理屈で済ませるのは
個人的には賛成しません)
最初はワークのやり方で、自分の内側奥深くにある
「種」を掘り下げていたのですが、
あるところからふと、現状も、関係する人も、
自分の中のあらゆる「種」にも思いを馳せたとき、
その一つ一つを祝福しよう、と思いました。
受け入れるでもなく、統合しようというのでもなく、
拒絶するのでもなく、癒そうとするのでもなく。
ただ、怒りを、憎しみを、理不尽さを、苦しみを、
痛みを、やるせなさを、絶望を、冷酷さを、
弱さを、悲しみを、孤独を、
ただただ祝福しようと。
どうしてどう思ったのか、
自分自身の魂が歩んできた道のりと
その瞬間瞬間のあらゆる思いや、
相手の魂が歩んできたすべての道のりを
思ったとき、
そこにいかなる否定の思いも
筋を通そうという思いもなく、
ただ瞬間瞬間をそうやって歩んできたのだ
という何とも言えない感覚だけがありました。
だから、在るがままを祝福しよう。
そんな思いが自然に湧いてきたのでした。
自分も相手も、どちらが優れているとか
劣っているとか、正しい、正しくない、
弱い、強いとか、そんなことはどうでもよく、
私も相手も、そうやって生き抜いて、
無数の人々に出会い、別れ、再び出会い
を繰り返してきたんだと感じたのでした。
その歩みがきらびやかであろうと、
無様であろうと、
ただ歩んできたこと自体が尊い。
そんな思いからの祝福でした。
人間としてこの世界で様々な人たちと出会って、
ときに親愛の情を育み、切磋琢磨し、
蜜月を過ごし、また時には被害者加害者として
人生のある時期を共に過ごします。
そこには、この世界に来る前に魂同士で
交わした約束があります。
人生で、ポジティブであれネガティブであれ、
特に印象に残る出会いは、そのようにして
交わした約束を果たすための出会いです。
感情解放セッションなどで、しばしば
この約束が果たされた場面に立ち会うことが
あるのですが、
深くこじれた関係性の中から、
その人自身が魂の学びを掴み取ったとき、
ものすごく深い愛と祝福の晴れやかさが
当たりを包み込みます。
魂が約束を交わしたその同じポジションに戻るので、
そこで互いに通じ合っていた深い愛に
再び触れるからです。
これは、体験した人だけがわかることですが、
だからあれほどまでに憎んでいた相手に
感謝の思いが湧きあがってくるのです。
これを体験された方は、どうして
あんなに憎んでいた人にこれほどまでの
深い愛と感謝を感じるのかと不思議に
思われるのですが、
その秘密は相手の魂と交わした
約束にあります。
人生でしばしばとても苦しい思いをさせられる
相手と言うのは、実はあなたの魂のプログラム
において、自ら進んで悪役を引き受けてくれた
魂なのです。
ポジティブな関係性の役割よりも、
悪役を演じるというのは魂にとっても
とても辛いことです。
にもかかわらず、それをあなたの学びのために
引き受けましょうと言ってくれたのが、
その魂なんですね。
あなたがその学びをクリアするかどうかの
保証もなく、生涯あなたを呪い続ける
かもしれないというのに。
ポジティブな関係性よりも、余程深い愛を
持っていないとできない役割です。
だからこそ、あなたがその学びを本当に
掴み取るというその完了は、相手の魂にとっても
素晴らしいギフトであり、祝福なのです。
自分にとって相手は悪役、
相手にとっては自分は悪役。
どこまで、自分が決めた学びを
クリアできるか。
相手の魂にギフトを贈ることができるか。
人生はまさにチャレンジですね。