私はよく、スニーカー履いて隣の駅の
大きな公園まで散歩に行くのですが、
歩くっていいですね。
頬にあたる風の冷たさ、日差しの暖かさ、
季節ごとの草花の移ろい、野鳥の様子など
楽しみながら、てくてく、てくてく
歩いてます。
セッション後にクラウンディングや
エネルギーブレイクの意味もあって、
私には欠かせない習慣です。
目的地の公園までは、商店街を通ったり
親水公園を通ったりするのですが、
そこでいつも目にして考えさせられるのが、
住宅やお店と道路の間の植え込みに
捨てられているたくさんのゴミです。
その家の人やお店の人がわざわざ
自分の家の前を汚すことはしないと思うので、
行き来する外の人たちが捨てるんでしょうけれど、
ホントにひどいんですよね。
ただ、いつ通りかかっても前に見たゴミが
そのままの時が多くて、家やお店の人は、
掃除しないんだろうか?って
気になって仕方がないのです。
私の実家は商売やってますが、
家の前は当然、ゴミが落ちてれば
掃き掃除しますし、
そんなゴミを放置してたら
みっともない!すぐに掃除しろ!
って父は怒ったでしょう。
それから、飲食店の前の道路が
油でギトギトに黒くなっているの、
あれもどうなんだろうな、
と思ってしまいます。
自分の敷地の前の道路がゴミや油で
汚れている店や企業からは
私だったら食事をしたり物を買ったり
仕事を依頼したりはしないな~
って思っちゃうんですね。
なぜかというと、
そのお店や企業で働く人たちは、
そういうところを見ても
平気で居られる感性なのだろう
と推察されるからです。
レストランやお弁当屋さんだったら、
ギトギトに汚れた調理場で
料理を作ってるんじゃないかって
思ってしまう。。。
実際、そういうお店の換気扇から
漂ってくる臭いって、
全然美味しそうじゃないですね。
そういう感性でされた仕事に
お金を払いたいかどうか
ってことです。
そんなことを思いながら商店街を通り抜け、
公園に入るとまたあちこちにお菓子の殻や
ティッシュやたばこの吸い殻などの
ゴミが落ちています。
そのごみの捨て方がまたすごい。
お弁当の殻をベンチの後ろに
ポイッと捨ててあることもあるし、
ティッシュを丸めたのを
ベンチの板の隙間に詰め込んでたり。
うわ~、こんなごみのポイ捨てが
あるんだ~!って最初は結構
カルチャーショックでした。
特にベンチの後ろに大きくても小さくても
ゴミを放り投げるっていう概念が
私には無かったので、そういうことをする
人の心理は興味深く思いました。
自分の目に見える範囲から
厄介なもの(処理に困ったゴミ)が
消えればいいってことなんだろうか。。。
見えなければ、ない。
自分にはもう関係ない。
ってこと?
多分こういう人たちは、
目に見えるゴミだけじゃなくて、
自分の現実に起こった面倒と思える出来事
に対しても、同じようにしているんだろう
と思います。
放り投げて、それがどうなっても
自分には関係ない、後は野となれ山となれ。
誰かの迷惑になっても知らぬふり。
先のことは一切想像もしない。
ゴミをゴミ箱まで捨てに行ったり、
持ち帰って責任をもって処理する
なんてことを面倒臭いと思うように、
自分が処理しなければいけないことを
面倒に思って、隙あらば誰かにやらせよう
としたり、放置したりするんだろうな。
そう言うことがきっちりできる人が、
ごみの捨て方だけがだらしなくなるって
ないでしょうから。
同じ意識、同じ感性が貫かれてるはずです。
だから、昔から優れた仕事人は
部下や後輩に仕事を教えるだけじゃなく、
人としての在り方を教えてきました。
そこができてなかったら、
仕事に魂が入らない。
私はそう思います。
人としての在り方が素晴らしい人って、
どこかすっとした清々しさがありますね。
オーラがクリアで、ごちゃごちゃしてない。
ベンチの後ろにお弁当の殻を捨てるような人は、
多分自分のオーラの中にゴミを一杯
捨ててると思うので、絶対そういう
清々しさはないと思うな。
確認したことはないけど。笑
だから、逆に言えば、行動を正すことで
自分自身の心を整えることができるし、
育てていくこともできると思うんですね。
行動には、その人の意識や感性が
隠しようもなく表れますから、
人育ての達人は、そういうところは
絶対に見逃しません。
というわけで、日頃、自分が
どんなごみの捨て方をしてるかな?
というのをぜひ振り返って見てください。