このブログでは、光だ愛だという前に、
自身の見たくないところ、弱さや闇から
目をそらさず、見つめるように、
ということを繰り返し書いてきてます。
みんな、光も愛も、大好きだから、
そう言うのは放っておいても
求めていきますからね。
でも、そういうものへの渇望が強い人ほど、
自分自身の中の反対のものは見ようとしない。
そして、見ないものによって
足をすくわれる傾向があるのです。
だからこそ、両方を隙なく見て、
中道に立つ必要があると思うのですよね。
けれど、ニュートラルになるために、
光を求めているところをちょっと自重して
真ん中に近いところに調整する、
とかっていうことをやってもダメです。
そう言うことやろうとする人、
割といるみたいですけれど、
やっぱり極と極を同時に見ることで起こる
変容のスパークを通過してこないと、
本当にバランスが取れるってことは
ないでしょうね。
あくまで私の個人的意見ですけど。
だから、片方だけしか見ないのは
私は偽物だと思ってます。
全てが光であり愛だというのなら、
漆黒の闇の中に本当に光を
見なければいけないし、
悲惨さの極みの中に、
本当に愛を見つけなければいけません。
逆に言えば、もしそうであるというのなら、
なぜ直視できないものがあるのか。
対峙することに恐れを抱くようなものが
あるのか。
あり得ないはずでしょう。
だから、
概念でそれを言ってはダメだと思うのです。
人生のあらゆるこじれた現象の底辺に
必ず横たわっているのは、人間の弱さです。
ひたすら苦しくて辛くて、どうにもならず、
もがいている。
そこから逃げ出すために、
ありとあらゆる醜悪さが表れてきます。
でも、その元の苦しみを受け止めることが
できたら、その先のあらゆる醜悪なものは
オセロの駒がひっくり返るように、
見事なまでに調和した世界に変化していきます。
セッションで悲惨極まるストーリーから
想像もできないほど美しく調和した
ストーリーへと変容していくのを
目の当たりにするたび、
目の前の悲惨さだけを見ていてはいけない。
そのすぐ裏にある光を見るまでは
決してあきらめてはいけないのだと
しみじみ思うのです。
いつも私が言うように、闇が深いほど、
反転したときに表れる光は、
信じられないほどに深い愛に満ちています。
どんな状況の中にも、
必ずこの光の可能性があるのだから、
本人が諦めない限り、
お受けしたセッションに関しては、
絶対にその光を掘り上げて行こうと
コミットメントしていますし、
その方の中に光があることを
疑うことはありません。
必ずあるのだから、
あとはどうそこまでたどり着くか、
だけです。
最悪と思える現状に、
どうやって至ったかを理解すれば、
その反対をやれば状況を反転させる
ことができます。
詰まり、逃げに逃げ続けてそこに至った
わけですから、逃げてきたものの方に
向き直って、避け続けてきたことを
完了すればいい、ということになります。
基本はこれだけなので、
いたってシンプルなものです。
けれど、私たちはそうしないために
ひどく複雑な構造を自ら作り上げて
しまっています。
セッションでも、ありとあらゆる方法で
繰り出される騙しのトリックを識別し、
熾烈な抵抗をかわしながら核心に向かうのは
どんな人でも神経を使います。
何しろ、本人でさえ、自分が何を感じ、
何を思っていたのかわからなくするほど
核心に触れるのは嫌なんですね。
セッションを組み立て、導く側としては、
本人が言ったその言葉をそのまま
採用できない時なんてごまんとあるし、
まるで煙幕を張ったかのように
五里霧中になっている状態から
どの方向にどう進むのか、
常に核心の方向を見失わないでいる
嗅覚は不可欠です。
でもある程度そういうパターンにも
慣れてくると、
「ここには何にもないよ!」って言いながら、
嘘やん。バレバレじゃん!って
笑ってしまうような明らかに怪しいサインを
簡単に見破れるようになったりもします。
そんな抵抗をしてくるエゴを、
たまにかわいいな~って愛おしく思う
ときもあるのですが、
核心に触れることを恐れるのは、
根本的にはそれを受け止め、
癒していくことすらできる
自分の力を疑い、見失っているからです。
だから私が見るように、触れるようにと
促しているのは常に、
自分自身の中に在る、
現実を受け止めて生きる力
なのです。
どんな人も、ここに触れなければいけない。
ここに触れていないのであれば、
全ては砂上の楼閣である
とすら思います。
あなたは無力ではない。
依存しなければ生きていけないほど
弱くもないし、無価値でもない。
ただ、自分をそうだと信じたときだけ、
あなたは自分が信じたものになり、
そのような現実を生み出す
というだけのこと。
長いこと自分が無力だと
信じ続けてきた人は、一朝一夕に
パワフルな自分に変わることは
ないでしょう。
けれど、自分自身に対峙し続け、
内から湧き上がるものに触れる経験を
重ねていく中で、自分にかけた
呪いのような暗示を解いていくでしょう。
それは、暗示を解いて別の暗示をかける
わけではないのです。
ただ、自分自身の真実に帰っていくだけ。
真実は、パワフルであり、シンプルなのです。