昨日の投稿ともつながってるのだけれど、
様々な方のセッションをしていて
あらゆる生き辛さの根底に必ず見つけられるのが
自分自身への強烈な否定性だ。
「枠」という正しさによって自分を規定しよう
という在り方もそうだし、病的な依存性もそうだし、
他者への強烈なジャッジメント、批判精神、
非寛容性も、根っこを辿ればここに行きつく。
自分がどうしても信じられない。
許せない。受け入れがたい。
まともに向き合うこともできず、
場合によっては、憎しみすら抱いていたりする。
最もあってはならないもの、
それが自分であるとき、
その人はこの世界によって立つべき
よりどころ、基盤を失う。
この世界で何を体験するにも、
この自分を通してのみ可能となるのに、
その自分を無きものにして、
まるで実体のない幽霊のように
触れているようで触れず、
聞いているようで聞かず、
味わっているようで味わわず、
見ているようでまるで見えていない。
そんな生き方をしている人がいる。
この世界における基盤がないところで
どうにかして生きていこうとするので、
自分とは別の基盤を移植しなければ
ならなくなる。
かりそめの、偽物の基盤。
それが、誰かが提唱した正しさだったり
正解だったり、社会的コンセンサスがある
と見える何かしらの枠をどこかからか
持ってきて空虚な自分に着せる。
けれど、それはまるで透明人間に
鎧を着せたようなもので、鎧を外せば
そこには何も無い。
空虚な虚空が広がっている。
それが、自分を否定した者の在り方だ。
どんな鎧、枠を取り付けようと、
所詮は中身は空洞。
何かを感じて応答するはずの主体は不在だから
何を体験しても、どんな感動もない。
それでもどうにか生きてはいくだろうけれど、
当然、自ら無きものにした自分は
切り離された虚空の彼方で
苦しみもがいている。
そして、透明人間が鎧を着たように
虚ろに生きている方の意識も、
生き生きとした喜びもなければ感動もない
その毎日にどこかがおかしい、と
違和感を感じ、それがだんだん強くなっていく。
この在り方はどこかが違う。
その違和感が、やがて本来の人生の主体を
取り戻していく旅路に駆り立てていく。
透明人間は、最初は鎧を脱ぐことを
酷く恐れるだろう。
「自分」を形作っていた枠がなくなれば、
自分が消えてしまうとすら思う。
鎧は自分ではないと言うのに、
いつの間にか、そんな当たり前のことさえ
わからなくなってしまっているのだ。
自分の形、輪郭を決めている枠が消えたら、
どうやって生きていったらいいのかわからない。
その混乱を収束させるには、
自ら虚空に葬った、自分自身を再び
復活させなければならない。
あの、強烈に否定した自分自身を、だ。
ここにまた葛藤が起こる。
そもそもなぜそんなにも自分を否定したのか。
そこにはそれなりのストーリーがあるだろう。
決して許すまじ。そう強く誓っている人も
いるし、二度と自分を信じるものか!
と自分を分離、封印している人もいる。
そのストーリーにまで戻って、
その時受け入れ難かった、こじれにこじれた
諸々を再び解いていかねばならない。
そこを解いていくときに、
封印していたあまり心地良くない感情が
滲み出してくるのだ。
それをうまく受け止め、統合しながら
自分を取り戻していく作業は進められる。
とてもデリケートであり、
決して怯み、後戻りしてはならない
プロセスがそこに在る。
そのプロセスを、薄皮をはがすように
一段一段、着実に進めていく人もいるし、
どうしても認め難く、受け入れたくない
と抵抗する人もいる。
いずれにせよ、セッションの中では、
私はそうした人たちの側で様々な働きかけを
しながら励まし、ときに叱咤しながら
伴走している。
働きかけによって、恐れが和らいだり、
苦しみが消えていったりすることも
あるだろう。
けれど、セッションを受ける人は
どうか覚えておいてほしい。
私はそのようにしてあなたの道のりを
サポートすることはできるけれど、
その道を行く主体は、
あくまであなた自身だ。
私があなたの替わりにその道を
歩くことはできないし、
あなたの道を決めることはできない。
あなたは自分で決め、
自分の足で歩まなければならない。
その部分だけは、
何人たりとも立ち入ることのできない、
神聖な領域なのだ。
その領域を一人、自分の意志で歩むとき、
あなたは様々な恐れを感じるだろう。
あなたはその諸々を引き受けて歩むことによって
背負ったカルマを清算したり、
得難い恩寵に触れたりして
魂の深い変容を経験していく。
これは誰しも、自分の道を歩むとき、
必ず経験することだ。
自分自身に本気で向き合って、
人生を歩んでいれば、
これを経験しない人など
いないだろう。
だから、1人歩むことを
恐れてもいけないし、避けてもいけない。
これを避け続けることは、
ずっと未成熟なままで居ることを意味する。
人は成熟していこうとするとき、
どこかで孤独を友として歩むことを学ぶ。
孤独は恐れ、忌むべき敵ではない。
それは、あなたに成熟と威厳をもたらす
変容の炎だ。
甘んじて受けるがいい。