人間、生きていればどうしてこんなことが
起こってしまったんだろう?って思うような
トラブルに見舞われることも、ないとは
言えません。
サロンに見える方の中にも、様々なトラブルの
ご相談があって、そんなことが実際に起こるのだな
と、事実は小説より奇なり、を実感するのですが、
こういうできごとって、とかく自分は被害者的な
立場で、相手から理不尽な仕打ちをされているのを
何とかしたい、というスタンスで捉える方が
ほとんどだと思います。
たしかに、怒った出来事だけ見れば
はらわたが煮えくり返っても当然だろう
というのはわかるのですが、
そういう視点からどんなアプローチをしても、
あまり解決の道には役に立たないんじゃないか
という気がします。
もちろん、違うご意見の方もあるでしょうけれど。
その出来事によって、尋常ならざる縁を
結ばされたというのは、ものすごく意義深い
魂の意図があるのです。
私は常に、そこを汲み取り、気づきを得ずにして
その出来事を卒業することはできない
という視点から、セッションをしていますが、
そこを見ていく準備のできた人でさえ、
しばしば容易には認めがたい、という自身の姿を
突き付けられるものです。
よく、自分の中で拒絶した要素を他者の中に
投影して見るのだということが言われますが、
まともに見つめることのできないような
自身の側面に、どれだけ対峙できるか。
その苦しさを超えて変容の炎に焼かれる
覚悟がどれだけあるだろうか、
ということがセッションの成否を分けます。
それまで、勇敢に自分自身を見つめてきた人も、
自身の最も受け入れたくない核心の前に立った時、
見たこともないほどに逡巡し、抵抗し、もがき、
逃げ出すこともあります。
でも、そういう部分を見栄も体裁も
これまで積み上げてきたどんな自分像も
かなぐり捨てて自身の真実を認めない限り、
それまでの成果など、所詮は虚像に
過ぎなくなってしまいます。
深く深く怒った出来事を読み解き、
見つめ、触れて行くにつれ、
相手の姿は否定の仕様もなく、
自分自身であるという気づきがやってきます。
真実への気づきというのは、
しばしば劇薬でもあり、それまでの
自身の世界を根底からひっくり返してしまう
ほどの威力を持ちます。
私たちはみな、どこかでそれを知っているがゆえに、
準備ができていない状態でそこに近づこうとすると、
熾烈な抵抗を示すのです。
もしそうでないというのなら、
そこまで抵抗する理由がありません。
あれは自分ではない、
自分は善良で理不尽な仕打ちを受ける被害者で、
相手はまともに話なんてできない狂人である
という構図を捨てることです。
表面的な行いを見るのではなく、
そのような行為をせざるを得ない、
相手の動機となる気持ちを捉えましょう。
これは、あなたの中に在るものに
完全に一致します。
これこそがその出来事を引き起こした源であり、
種なのです。
この種を残したまま、どんなことをしようとも、
また同じところに戻って来るでしょう。
相手の中に見る醜さ、狡さ、弱さ、狂気などなどは
すべて自分自身のものであり、これと戦うということは、
あなた自身と戦うことです。
永遠に勝利を見ることのない、不毛な戦いに
なるでしょう。
自分が一体何と戦っているのか、
よく考えてみてください。
そうしたものに触れることを恐れる人は
多いけれど、だからこそ、恐らくあなたは
何度もこれを統合することを失敗してきた
はずです。
今生だけでなく、いくつもの人生で。
それだけ、簡単には行かなかった
テーマなのでしょう。
逆に言えば、これをクリアすることは、
過去何生分もの変容を一気に起こすこと
に他なりません。
出来事の深刻さが深いほど、
あなたがそれを認めることを拒絶してきた
ということを意味します。
受容することを拒絶されるほど、
その側面が自身に呼びかける声は
大きく、より深刻になっていくからです。
最終的に、本当にこのことの学びを完全に
卒業できた時には、あれほど憎み、怒り、
反吐が出るような感情を抱いていた相手に対して、
心底の感謝が湧き出てくるようになります。
頭で、あれは学びだったんだ、ありがとう
と無理やり納得させるのではない、
溢れ出ずにはいられない感謝です。
その時あなたは、確かにすべてのストーリーの中に
まごうことなき愛が流れていたのだということを
確かに見ているでしょう。
それが卒業の印です。
中途半端に納得させ、あるいは
自分自身と戦う不毛さを知るように。