人それぞれ、生来の気質というものがあり、
苦手もあれば得意もあります。
得意なことは、放っておいてもできるので、
楽しいからついついやってしまうし、
そうやって人よりも自然に多くの時間を
それに費やしているから、さらに
伸びていきます。
一方で苦手なことって、うまくできないし
その横で人が何の苦労もなくできてしまうのを
見るとますますやる気になれないし、
楽しくない。
だから放っておくと、全く手を付けない
なんてこともあるでしょう。
それが良いとか悪いとかではなく、
簡単に伸ばせるものがあるのなら
どんどん伸ばせばいいし、
無理して苦手なことを自分に強いて
人生をつまらなくすることもないと思います。
ただ、ときには苦手と放置していたことに
取り組む必要性がどうしても出てくるときも
人生にはあるように思います。
そういうとき、意識の底にこびりついた
「私は○○だから苦手、できない」
というアイデンティティも一緒に
書き換えられるといいんでしょうね。
○○だから、という理由づけには、
色々な言葉が入りますけれど、
たとえば
両親が毒親だったから、
育ちが恵まれていなかったから、
足が短いから
鼻が低いから
声がだみ声だから
才能がないから
スマホ持ってないから
スカートが短いから
星の配置が悪いから
学歴がないから
太陽がまぶしかったから(byカミュ「異邦人」)
みたいに、本当は理由にもならないことが
自分の頭の中ではご隠居様の印籠のように
「これが目に入らぬか!」という
誰しもを黙らせてしまう(はずの)
否定しがたい権威となって機能していたり
するのです。
本当はもっとシンプルなはずのことも、
その周りにゴテゴテと綿あめのように
ストーリーを巻き付けて、
自分で手に負えないモンスターを
作り上げ、途方に暮れているんですね。
今自分ができない。
でも、できるようになる必要がある
のであれば、
できない自分にじっと対峙して、
そこにある諸々を引き受けて
進んでいけばいいだけです。
そのときに、これまで
あぁだった、こうだったというのは
関係ないはずでしょう。
意識がそう言うことにそれていくと、
本当に集中すべきところから
容易く力が漏れていってしまいます。
苦手なそのことに向き合ったときに感じる
恐れや惨めさ、情けなさ、敗北感、
言いようのない苦しさから
逃げ続けているだけです。
今自分がそれをすべきだと思うのなら、
余計なところで言い訳をしないで、
自分自身の限界のエッジをひたすら
見つめることだと思うのです。
あと1秒、あと1㎝、もう一声粘り、
それまでの自分を超えていくことが
できないか。
自分の持てる力を結集して
その一点を突破していく力とする。
そういうチャレンジをするときが
人生に何度かあっても
いいんじゃないでしょうか。
感情解放ワークのセッションでも、
しばしばクライアントさんを
それまでずっと避けてきた核心の方に
誘導していくときに、
ちょっと辛いんだけど、
急がなくていいし、自分の今できる範囲で
いいから、もう少し踏みとどまってみようか、
と誘導することがあります。
それまで、全然やってきてなかったことを、
ほんの少し、気張ることで通過できて
しまうことがあるんですね。
セッションでやるのは、そういうところを
上手に通過させて差し上げるサポートです。
本人は、やってみる前に既に
「無理、やらない」ってなってるので、
そこをこうすればできるよ~、
ちょっとやってみようか、って
導いていくわけです。
で、やって見ると、案外できちゃった
ってなって、自分の可能性が広がっていく。
無理、ダメって思ってたものも、
割とそうじゃないんだなって気づいていく。
私自身も苦手は一杯ありますが、
そういう意識のほとんどは、
実はただの思い込みで、
上手に超えていくやり方というのがわかれば
それほど大変なことでもないのかも
しれません。
でも、超えていくにはある程度の集中力は
やっぱり必要なわけで、だからこそ
余計なところにふらふらとエネルギーを
漏らしていてはいけないのです。
エネルギーの向け先を的確に選択し
集中させることができれば、
私たちにはもっと多くの可能性が
開けてくるでしょう。
逆に言えば、何でも上手にこなす人は、
そういうところができている、
ということなんでしょうね。
途方もないことに見えても、
今やるべきことはそれほど多くはないはずです。
自分で複雑にしないで、
シンプルにやるべきところにエネルギーを
集中投下していきましょう。