力というものについて、
ふと考えた。
中学生や高校生の頃、
私はずっと力が欲しいと願っていた。
ものすごく抑圧を感じながら、
自分でも自身を抑圧しながら
過ごしていた時期だったせいもあるけれど、
無力感と怒りと悲しみと諦めと、
10代の多感な頃の行き場のない感情を
どう処理していいか誰も教えてくれなかったし、
自分でもわからなかった。
そんな中で、私はひたすら力を求めていた。
今思えば、どんな力が欲しくて、
それで何をしたかったのかすら
わからなかったけれど、
周囲を圧倒するような、
有無を言わせぬ力をもって、
どうだ!もう誰も何も言わせないぞ!
ってうるさい連中を黙らせたかった
のかもしれない。
何もかもが嫌だったし、
うるさかったし、
虚しかった。
あれからウン十年。
(きみまろ風に。笑)
何の因果か、ヒーラーという仕事を
させていただいて、
自身と、たくさんの人たちの様々な
心模様をつぶさに見続けてきた。
人はいかにして過ちを犯すのか。
力を手に入れ、誤用し、自他を傷つけ、
封印するのか。
また、再び力を取り戻し、
正しく使う道を知るのか。
自分自身の魂の中に眠っていた
多くの人生の記憶を見たし、
他の人の中のストーリーも
様々、見せていただいた。
健全に力を取り戻していく旅路に
寄り添わせていただいた中で感じたのは、
「振るう」ような力は、
結局のところ、下の下。
本当の力は、「在る」ことによって
自然に周囲に影響を与える力だと思う。
「在る」というと、「今この瞬間に在る」とか
「今ここ」とか、とかく小難しく考えて
しまいがちだけれども、
(私自身もそうだったけれど)
ある「在り方」をしたときに、
その姿そのものから生じるものがあるのだ。
それは、えいっ!と何かエネルギーを流して
云々といった類の力ではなくて、
その場、その時にその在り方で居ることで、
カチッとスイッチが入って、
その場がひとりでにある状態に移行してしまう
みたいなイメージ。
力と言うけれど、作用というか、
何と言うか。
それを表現する言葉が見つからないのだけれど、
働きかけたりするようなものではなくて、
それがそこにそのように在るだけで、
周囲が勝手に変容してしまうような、
存在感で他者を圧倒するとかいう雑な力とも
それは違っていて、
錬金術師が卑金属を金に変える時に使うという
「賢者の石」のごとく、
根本的に、周囲のものの質を変えてしまう
存在の在り方。
そういう作用というか、力がある。
今まで、ヒーリングをやってきて、
様々なヒーリングのエネルギーを使い、
テクニックも探究してきた。
けれども、どれだけそういう技量を磨き、
探究しても、その錬金術的な作用の
生み出すものには到底及ばない。
「在り方」がすべてなのだ。
力を求める人は多いけれど、
その力を使いこなす技量、見識、人間性を
問う人はそれほど多くはない。
そういう輩のほとんどは、
自ら得た力に溺れ、悪くすれば
身を滅ぼしていく。
いずれの力であれ、
本当に力を使いこなしたいのであれば、
光と闇、双方をマスターしなければならない。
愛だ、光だと言って自らの内の闇に
のまれる者は少なくないし、
闇の側の存在に魂を売って
骨の髄までしゃぶられている者もある。
力を欲する者は、
何故に力が欲しいのか、
自らによく問うべきだ。
そして、その欲しいと願う気持ちを
下手に誤魔化し、目をそらしても
いけない。
力を求める思いの裏には、
自分には力がない、という無力感がある。
考えても見るがいい、
本当に力あるものが、力が欲しいなどと
願うだろうか?
力で埋めようとしているものが何なのか、
よく見ることだ。
それが心の隙になるのだ。
しかと、心に留め置くがいい。
とことん自分の心の奥底に横たわる
無力感、惨めさ、虚しさ、孤独、悲しみ、
あらゆるどうしようもなさに向き合おう。
そうしているときに、あなたは
自分の闇をマスターしていくのだから。
そういうプロセスを経ないで
愛だ、光だと言っても、
薄っぺらいきれいごとで、
バランスを欠いている。
光にも闇にものまれずに力を使っていくには、
自身の欲望をよく観察することが必須
だろうと思う。
欲望、それ自体が悪いとか良いとかではない。
欲望を観察することほど、
人間という存在を知る良い教材はない。
欲望の醜悪なドロドロしたところも、
激しく鮮烈な生への願いも、
真理への渇望も、
目をそらさず、突き抜けて見続けたらいい。
その向こうに、信じられないくらいの
愛があるから。
その愛を礎にして「在る」とき、
もはや己の不足感を埋めるために力を
求めるような旅路は終わりを告げるだろう。
そして、自分自身が「賢者の石」
になっているのだと思う。
だから、中途半端に己の欲望を隠して
きれいごとで力を求めるようなことは
やめたらいい。
正直に、欲望に向き合い、
光と闇を突き抜けていくことだ。