苦しい感情の波に飲み込まれている時、
しばしば世界はどうしようもなく絶望的な
悲劇の舞台であるように見えたりします。
その中でもがく自分は、無力な被害者で
何もできることがないような気がして
人生に投げやりになったり
するのですけれどね、
でもそれは、感情のフィルターがかかった
視野が見せる、ある種のフィクションです。
その世界を、「自身の真実」だと
信じ込まなくても良いのです。
感情解放ワークを長いことやってきて
毎回感じるのは、自身の内に湧きあがる
感情を統合すると、
その瞬間から自分の生きる世界が変わる
ということ。
正確に言うと、自分の世界に対する
捉え方、感じ方が全く変わってしまうのです。
要は、「問題」と見えるものは、
外側にあるんじゃなくて、
自身の内側にある、というのが
ワークの基本的な世界観の柱です。
だから、世界が悲劇に見えるのだとしたら、
何が世界をそのように見せているのか、
自分の内側、視野にかかったフィルターを
点検するようにします。
私たちはしばしば、自身の内に湧きあがる
感情故に、動けなくなることがあります。
悲しすぎて、絶望感や無力感に打ちひしがれて、
或いは、噴き上がる怒りを抑圧するがゆえに。
けれど、そうした感情をきちんと処理できた
状態で改めて現状に向き合えた時、
行動すべきところは行動し、
できることがないのなら見守るとか手放す
といった具合に物事はぐっとシンプルになります。
それについて、葛藤したり悩まなくて
良くなるわけですね。
動くべきだ、動きたいと思うのに動けない時、
そこにはどう処理したら良いのかわからない
感情のエネルギーが絡みついていて、
バグを起こしたりしてフリーズしているのかも
しれません。
今まではそれに対処できないがゆえに
手を出せなかった領域も、対処できれば
そこが今度はそっくりそのまま、
活用できるフィールドになって
自分を広げていくことができます。
セッションなどでリーディングをすると、
次のステージに進もうとされる時に、
そのフィールドを開いていくことが
重要なポイントになっている方も
多くいらっしゃいます。
どんな分野でもそうですが、
これまで使われていなかったデッドフィールドを
開発し、再統合することで、ものすごく発展
していくことってありますね。
心でも筋肉でも、土地でもエネルギーでも。
その開発、発展の余地ってものすごく
大きいです。
デッドフィールドが使えないままの自分では
行き詰まり感があるのだとしたら、
まだ使えていない領域を開くことです。
それは、往々にして今まで苦手として
避けていたところだったりするので、
そこに目を向けるのはしばしば
気が重かったりするのですが、
何でもかんでも、気が重いところに
取り組むべきだとは言わないものの、
頭ではなく、そこに意識を向けていくことに
何かしらの「風」というか、ワクワクするような
動く感じがもしあるのなら、今がそれに
取り組む「時」なのだと思います。
人生では誰しも、苦しい時期というのが
ありますが、往々にして、そういう時期にこそ
次の飛躍の基礎を築く時期だったりするし、
それがその時期の自分に必要なことなのであれば、
ちゃんとそれに取り組めるような状況というのは
与えられるものだと思います。
だから、やるべき時には中途半端にしないで
本腰を入れて、取り組むと良いでしょう。
そうして、自分自身に向って、あるいは
信仰している神仏やこの人生を導いて
暮れている存在に、
自分は取り組もうと思う。
だからどうか、やり遂げられるように
守り、導いてほしい、と
お願いしておいたらいいでしょう。
それでも苦しいことはあるかもしれないけれど、
実はその苦しみの中で昇華していくものが
あったりするんですよね。
その苦しみの炎の中でしか、
変容できない何かがあったりするのです。
私自身、感情解放ワークを生み出すときに
自分に向き合い続けていた時がまさに
僧だったな~と思うのですが、
先のことなんて全くわからない暗闇を
延々と歩み続けていくときの
押しつぶされそうな不安の中で、
何度も神の導きと励ましの恩寵を感じたし、
そうした体験に触れるたびに、
少しずつ自分が変容していくのも
感じていました。
確かに、人は喜びや楽しい体験からも
学ぶことはできるけれど、
苦しみの中で得られるものは、
全く質の違ったものなんですね。
そのどちらも、人生には大切な宝
なのだと思います。
何はともあれ、未開の領域を拓くときは
多かれ少なかれ、自身の内側にぐっと深く潜り、
自分に対面していくプロセスがあります。
願わくば、あなたが軽やかにそのプロセスを
越えていかれますように。