「自分探し」って、一時期流行った言葉ですが、
国会議員から10代の若者まで、多くの人が
「今ここではないどこか、
こんな自分じゃないもっとすごい自分」
を求めて自分探しの旅をしていました。
今も多くの人の自分探しの旅は
続いているのかもしれません。
自分は今ここにいるはずなのに、
別の自分を探すということは、
現状の自分がどこかしっくり来ていない、
本当の人生を生きていない感じがする
ということなんでしょうね。
その違和感を、どうにか修正したい
というその思いに異論はありませんが、
しばしば自分探しをする人たちに
危うさを感じることがあります。
最も危うさを感じるのは、
ふわふわした夢を追う一方で、
今この自分があまりにもお留守になっていること。
そのお留守具合は人によって違いますが、
どんな理想を追うにせよ、今の自分が
すっからかんでお留守では、夢を現実にする
力は出てこないだろうな~って思います。
それに、どこかズレている自分の状態から
本来在るべき自分のポジションに修正するための
カギは、どこか遠いところにあるのではなく、
実は今この瞬間のこの自分の中にあるのです。
だから、どこか空中をさ迷っているような
目では、目の前にまさに差し出されている
次に進むためのカギに気づくことも
拾うこともできないのです。
夢が大きくても小さくても、
本当にそれを生きたいのなら、
今の自分を疎かにしてはいけない
と私は思います。
夢の国は、どこか遠い別のところにあるのではなく、
今ここに実現すべきものです。
自分が今ここから逃げるほどに、
「本当の自分」や「理想の人生」からは
どんどん遠ざかっていくでしょう。
どれだけこの自分を受け止め、慈しみ、
愛し、認めたか。
自分に対するその態度、接し方が、
この世界を天国に変えていくカギです。
自分を切り捨て、認めず、蔑み、
殺しているのなら、世界は地獄です。
どこに行って、何をして、どんな自分になろうとも、
最も逃げ出したかった苦しみは、再び目の前の
その世界に再現されるでしょう。
今この自分を、幸せにしないといけないのです。
今この自分を、どれだけ深く生きられるか。
その方向に、求めていた天国、理想の人生、
夢の実現があるんですよね。
人によって、自分の人生に設定したプログラムは
違います。色々なことが起こってくるでしょうが、
その一つ一つが、自分が本当に生きたかった人生
につながる、必要なことなのです。
それをどう受け止め、どう生きるかが
人生からの問いかけなんです。
お前はどこまでこれらを受け取って、
自分の人生と対話するのか。
自分が本当に欲しいと願っていたものに
本気で手を伸ばして触れるのかって、
問われているんだろうなって思います。
人によっては苦しさに耐えられなくて
投げ出すこともあるだろうし、
素直に受け取れなくて、自分を歪めて
しまうこともあるでしょう。
それでも、この人生が終わるその瞬間まで、
チャレンジは続きます。
臨終のまさにその瞬間に、やっと
求め続けてきたものに手が届くのだとしても、
たどり着けたのなら、その人はいかにそれまでが
困難に満ちていようと心は平安だろうし、
何十年も問題なくそこそこ幸せに生きてこれても
死の瞬間に惨めであったら、その人にとっての
人生の価値が惨めになってしまいます。
個人的には、その人にとっての人生の価値は、
どこまで遠くに行ったかという水平方向のもの
ではなくて、
どこまで深く自身の真実を生きたか、という
垂直方向の深さによるのではないかな、
と私は思っています。
無数の国の、無数の時代、無数のアイデンティティの
人生の記憶がこの魂の中に記憶されているとしたら、
どこに行って何をしたか、なんて表面的なことは
目的になるほど重要なことではないのです。
その瞬間をどう生きたのか。
そのことの方が余程重要です。
その瞬間の自分が、どれだけこの生を深く
生きられたか。そこなんです。
何気ない日常の中で、嘘偽りない
自身の命を生きることができたとき、
やっていることが何であろうと、
その瞬間は、神とともに在った神聖な瞬間
になります。
自分の命を越え、より大きな命に溶け込んだ、
かけがえのない今になるのです。
別に山奥で特別な儀式をしたり、
神社で神楽を舞わなくても、
瞬時に、特別な世界が目の前に開けます。
だから、今この自分から逃げ出すのではなく、
深く、深く、今この自分を丁寧に、
大切に生きてみましょう。