感情解放ワークで自分の気持ちに向き合っていると、
その感情に溺れそうで恐い、という方、
結構いらっしゃいますね。
というか、多くの方が自分の気持ちを抑圧するのは
詰まるところはその恐怖からなんだと思いますが、
これまで何度も書いてきているように、
ワークで感情のエネルギーに触れることと、
感情に浸ること、溺れることは違います。
感情に触れる、というと、
触れた瞬間に自分がその荒波の中に
巻き込まれてしまうようなイメージを
持たれているようなのですが、
そうなってしまう要因はいくつかあります。
ひとつは、身体の感覚から離れてしまって
いること。ワークでは、体感覚をアンカー(碇)
のような役割で使っているので、
そこから離れてしまえば、
流され巻き込まれていくのは当然です。
恐いから逃げるのでしょうけれど、
逃げてしまうから巻き込まれる、とも言えます。
また、たとえば惨めさを受け止めようとして
その中に溺れている人は、惨めさを認めてしまったら
「自分=惨めな人間」になってしまうと思っています。
けれど、これはワークの視点ではありません。
ワークでは、
「自分の中に、惨めさの感情のエネルギーがある」
という風に、
惨めさ(対象)を観察している自分(主体)がいる
と言うポジションでいないといけないんですね。
そう言うと、今度は感情のエネルギーと自分の意識
が分離してしまって、感情に触れられない、
感じられないという人がいますが、
この場合の問題点は、「当事者意識」です。
分離してしまっている人は、
「自分は惨めではないけれど、可愛そうな惨めさのカケラ君が
いるから、私が救ってあげよう」という風に、
「自分≠惨めさの感情」で分離しているんですね。
一見、正しそうなのですが、
そこには当事者意識の欠如があります。
正しいワークのポジションでは、
確かに自分は惨めさの感情そのものではないけれど、
それは自分の一部であるという捉え方をします。
全く関係ないヒーローが、哀れな被害者を救う
という構図ではないのです。
だから、感情のカケラ君に寄り添うときも、
それに触れる時も、当事者としてそれを感じながら
受け止めていくのです。
この2点が両方ともできていないと、
感情解放ワークは正しくできません。
本当に辛い気持ちを癒してあげられるのは、
外野から「可哀想ね~」って他人事で言ってくる人
ではなく、
その痛みを自分のこととして受け止め、
寄り添って統合までの道のりを
ともに歩んでくれる存在です。
そう思いませんか?
逆に言うと、抑圧というのはどうやって
やるかというと、
「あれは私のことではない」と他人事にして
分離するわけです。
自分のことじゃないんだから、
苦しいはずはないですよね。
こうして認識の外に、実際には存在しているはずの
苦しみを置いて、無かったことにするわけです。
統合への道のりは、この逆をやればいいだけですね。
あれは私のことである、と認めて認識の内側に
それを置くところから、癒しが始まります。
無かったことについて、どうこうできませんからね。
そうやって初めて、悲しかったり怒り狂っていたり、
淋しかったり惨めだったりという、無いことにされていた
気持ちのカケラ君たちが日の目を見ます。
そして、それを受け止める自分が身体から逃げないで
それらの感情を責任を持った方法で表現し、感じ
生きることで、暴れ荒んだ気持ちが鎮まって行くのです。
このときに、意識が自分から逃げ出して
しまっていると、感じて表現してくれる存在が
不在になるので、統合はできません。
恐くてもどうにかして自分の中に戻っていないと
いけないのです。
私たちは、誰でも多かれ少なかれ
意識が自分の中にしっかり入り切っていない
状態で日常を過ごしていると思います。
これは今まで自分を含め、様々な方を見てきて
私はそう感じています。
ぴったり入っている人は、
完全に深い目覚めた意識の状態にある人
くらいなものじゃないでしょうか。
みんな、微妙なレベルで
自分自身から逃げ出しているのです。
認められない自分の側面や
なかったことにしたい諸々の体験などが
入れ歯に挟まった食べかすのように
(何ちゅう表現だ(^^;)
本来の自身の在り方を居心地悪くさせ、
収まりを悪くさせるのです。
ワークでやるのは、この食べかすみたいなものを
綺麗にして、本来の自分のポジションに
ぴったりと戻してあげることなんですね。
戻れば、力もちゃんと伝わるし、
痛くないですから。
というわけで、入れ歯のお掃除みたいな
心のお掃除をぜひやってみたい!という方は、
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