ポジティブシンキングについて、
ここでも何度も書いたことがありましたが、
それ自体を否定する気はないけれど、
やりようによっては毒になるな、
ということをしばしば思います。
悲しかったりショックだったり、
諸々の感情が渦巻いているのに
まるでそれらが無かったかのように振る舞って、
無理やりポジティブな考え方をかぶせ、
ねじ込んでいる人をみかけるのですが、
本人は明るく振る舞っているのに、
そういう人を見ると、無理をしている
不自然さを感じてしまって、
とても苦しそうに見えます。
苦しいとか悲しいとか怒っている
とかいう感情を抱いてはいけない!と
ガチガチに自分を縛っているからですね。
苦しくても苦しいと言えず、
悲しくても泣けず、怒っているのに
怒ることを否定され、
ただ笑っていろと誰かに言われたら、
あなただったらどんな気持ちになりますか?
そういうポジティブシンキングは
心のバランスを崩すので
私はやらない方がいいんじゃないかな
と思います。
でも、結構多いんですよね。
そういう人を見るたびに、
どうしてそれほどまでに、ネガティブと
言われる感情を生きることを恐れるのだろうか?
と、不思議に思うし、
そういう恐れに駆り立てられた在り方の方が、
余程不健全なんじゃないかと思うのです。
泣いたって、怒ったって、いじけたって、
自分でちゃんとそうした感情を責任をもって
受け止めることができるなら、
何の問題があるんだろうか?
それらを否定するっていうことは、
自分がそれらを受け止め、生きることが
できませんって表明しているようなもの。
より高い霊性を目指すのなら、
なおさら、そういう感情については
消化・昇華できる自分であることは
必須だと思うのですよね。
上にのびようと思えば、
その分、ぐっと下にも根を張らないと、
行き詰ってしまいます。
下の根っこが充実していれば、
上に高く伸びても、安定して
支えられます。
上にのびようとする人は多いけれど、
同時に、下の根っこを充実させる必要性を
認識している人は多くはないようですし、
増してそれに取り組もうとする人は
さらに少ないです。
でも、そこが本当に充実していれば、
大きく崩れることはないのです。
ネガティブな感情に向き合うこと、触れることは
それに飲み込まれることとは違います。
ここ、混同している人がとても多くて、
そんなことをしたら鬱になってしまって
立ち上がれなくなり、日常生活も
ままならなくなるって思っている人が
多いのですが、そうはなりません。
その道のりは、まさに失った自分自身の半身を
取り戻すことでもあるし、
自分との、長い仲違いの歴史に終止符を打ち、
愛と信頼を築き上げていくプロセス
そのものです。
それができれば、無理やりものごとを
ポジティブに思い込まなくても
自然に世界は素晴らしく親切で美しいものに
感じられるようになっていきます。
自分自身の才能を発揮していくときにも、
ここはかなり影響が大きいところ
だと思うんですね。
たとえば、アーティストなど、表現者としての自分を
花開かせようと思うとき、
自分の中のネガティブと呼ばれる領域を
マスターしているのとしていないのとでは、
表現できるものの奥行が全然違ってきます。
たとえ、一見して明るくてポジティブな表現で、
ネガティブな要素は全く見えないように
思えても、マスターしている人の表現は、
心の奥深くを震わせるような力があります。
そしてまた、一見重いテーマを扱ったとしても、
どこか軽やかで、ずしッとした重苦しさがなく、
抜けているんですね。
表面的に明るく軽い、けれども奥行きのない表現、
あるいは、ひたすら重苦しいだけの表現とは
全く違ったものになるのです。
以前、とあるイラストレーターさんとお仕事を
させていただいたことがあるのですが、
その方に、こんな絵を描いてくださいって
オーダーしたときに、何点か、どうにも
描くのに苦労された絵がありました。
それは、意地悪い表情とか、苦しんでいる表情とか
だったのですが、とても心優しいその方は、
そういう表情を描くのが辛かったんですね。
何度も書き直していただいて、
ようやくOKを出したのですが、
こんな風に、自分の中でマスターしていない
感情の領域があると、自由自在な表現ができず、
制限がかかってしまうのですね。
これは、アーティストに限らず、
どんな人にも言えることですが、
たとえば、右手を封じた状態で仕事をしてください
っていうくらいの不自由なことなんです。
多くの人はそれがデフォルト状態になっているので
そんなにも自分が不自由な状態だとは気づいて
いないだけなんですよね。
どんな感情にも、それ自体に善悪はありません。
ただ、責任を持った表現の方法を知れば
いいだけです。
自由自在に、自身の感情を生きて行きましょう!