セッションしていると、しばしば
当事者意識の非常に薄い人に
出会うことがあります。
自分のことなのに、まるで他人事。
どんな問いかけをしても
「なんか、○○みたいですよ」とか
「~なんでしょうね~」とか。
映画の中の登場人物が何かしているのを
傍から見ているかのような表現が
特徴です。
私の感情解放セッションでは、
自分の意識がしっかりと自身の体の中に在って、
心に触れている状態であることが必須なのですが、
こういう人は、どんなに誘導しても、
体感覚が取れなかったり、
感情に触れられなくて、
がっちりと閉ざした分離の壁を
越えることができません。
でも、頭ではちゃんと感情を受け止めなければ
いけないこととか、その必要性などは
理解されています。
でも、どうしてもできないんですね。
やろうと思っても、本当にはそれをやる、
というコミットメントができなかったり、
たとえば、自分に悲しみや怒りがある、
ということを認め、深く受け止めることを
どうやってやったらいいのか、
わからなくなってしまうのです。
あれ?感情を感じるって、
どうやるんだっけ?
みたいな感じです。
こういうケースをまた深く掘り下げていくと、
なぜ他人事なのか。どうしてそれができないのか、
なるほど~!っていう理由に突き当たります。
それは何かというと、
本当に「他人事」だからです。
え?って思いますよね。
つまり、
「その人本人じゃない存在」が受け答え
しているからなんです。
以前にもブログでは何度か書いたことが
あったかと思うのですが、
人生がとても辛くて生きているのが
嫌になったとき、意識が自分の体から
出て行ってしまったのです。
で、それだけにとどまらず、
空っぽになった自分の体に、別の存在が
入ってもいいよ、という契約を交わしてるんですね。
私がいない間、私として生きててね
って感じです。
自分としては
もうここに居たくないし生きるのも嫌。
入れ替わりに入ってくる存在にとっては、
体を得られる、という互いの利益が一致したときに
こういう契約が成立します。
だから、勝手に入られて云々って話ではないんです。
で、自分ではない別の存在がその人のふりをして
何年も、時には何十年もその体の中で生きている。
その内に、人生がなかなかしんどくなってきて、
あれこれ模索している内にサロンにたどり着いて
セッションを受ける。
色々問いかけられて最初の内は何だかんだと
煙に巻いて「わかりません」とか
言っているけれど、
そういう行動自体がもう怪しすぎて、
おや?っていう特有の気配があるんですね。
そうして、ある段階にきてついに、
決定的な問いを投げかけられた結果、
バレちゃった~~~!!!
ってなるわけです。
こういうのが発覚した後は、
中に入っている存在に、契約継続の意志を確認することに
なるのですが、ここからはもう色々な流れがあります。
入っている存在も、その状態は本当は正しくない
というのはどこかでわかっているんですよね。
だから、今の状態よりももっと別の良い状態への
道筋が示されれば、割とすんなり、
契約解除に応じてくれることも多いです。
そうなれば、本人の方の意志を確認して
互いに了承すれば契約解除。
入っている存在は本来在るべきところに
帰っていただき、本人は自分の体に戻って
自身の人生を引き受けて生きていく、
という流れになります。
一方、そうはすんなりいかない場合もあって、
本人が自分の体に戻ってくる意志がないと、
入っている存在もそれにつられてのらりくらり、
というケースもありますね。
こういう場合は、一応本人に色々呼びかけたり
問いかけたりしますけれど、戻って来る意志が
なければ、もうこれはどうにもなりません。
それがあなたの選択なんですね、
ということでそこで終わりです。
それ以上、私にできることはありません。
私は手を尽くしてあらゆる可能性を提示しますが、
それを本人が選んだのなら、
これ以上説得するということもしませんし、
無理やり引き戻すとか言うのもしません。
そもそも、できないですしね。
その辺はかなりドライにさっと引きます。
こういうのも、きっと色々なタイミングとか
ご縁というものがあるのだと思いますが、
結局は自分の選択次第ですね。
こんなケースは非常に特殊なのだろうと
思われるかと思いますが、少なくはないです。
中には、一体だけじゃなくて何体も、
入れ替わり立ち替わりという人もいるし、
中に入っている存在も、
人の魂ではないケースもあります。
(私はそんなにそういうものの種類とかは
よくわかりませんけれど)
それは、本質的な質問をしたときの
支離滅裂な受け答えとか、当事者意識の欠如とか
独特の逃避のパターンとかで気づきます。
人生から逃げ出したい人もいれば、
たとえ本当の自分の体でなくてもその体に入って
何としても生きていたいと思う存在もいる、
というのは何とも不思議な感じです。
苦しい時は、この人生がそんなにも
有難いものだとは露とも思わないでしょうけれど、
私たちのこの生は、本当に本当に
貴重なものなのですね。