内観っていうと、自分の心の動きを見つめることを
思い浮かべる人が多いのではないかと思いますが、
一口に内観って言っても、色々なやり方が
有るだろうと思います。
感情解放ワークをするときは、
自分が何をどう感じ、どう反応したのか、
そしてそこからどう行動したのか、
なぜそう感じたのかという原因を掘り下げ、
感情のエネルギーを体感を通して捉えていく
という一連の作業があります。
けれど、私がセルフワークをするときは、
掘り下げていくときもあれば、
エネルギーを中心に見てひたすら
それを追っていくということもよくします。
たとえば、
何かを意図したときに体で感じる抵抗感を
捉えたら、その抵抗のエネルギーを
じ~っと辿っていくんですね。
どこに、どんな風に、どんなエネルギーがあるのか、
そしてそれはどこで引っかかっていたり
詰まっていたりするのか、
そのエネルギーは、
本当はどこに向おうとしているのか、
という方向性も見ます。
こちらに行きたいのだけれど、
詰まっているから通れなくて重くなっている。
とわかれば、その詰まっているところの中心に、
エネルギーを導いてやります。
大抵、そこにエネルギーを通そうとすると、
肉体的にも精神的にも嫌な感じがするんですね。
傷のあるところに針を刺したり刃を立てるような、
嫌な感じの心理的抵抗感と、実際、
肉体的にもズキっと来るときがあります。
それでもかまわず、そこにじ~っと
意識を向け、エネルギーを導き続けると、
やがてそこのエネルギーラインが通って
抜けていきます。
ラインが安定するまでは、しばらくコンスタントに
エネルギーを流し続けてやる必要がありますが、
地味な作業ではあるものの、確実に霊道は
開いていきます。
以前、感情解放ワークを自分で作り上げる時に
何か月も内観していた時は、最初はものすごく
エネルギーラインが詰まっていたので、
ワークをしているときはあちこちにある詰まりで
抵抗がものすごく強くて、
一日ワークをするともうぐったりでした。
また、エネルギーが通っていくときも、
体中からバキバキという音が聞こえてました。
今は、当時ほどではありませんが、
以前よりももっと深いところがバキバキ
いってますね。
エネルギーを通していくときはちょっと大変ですが、
通った後の抜け感はやっぱり抜群です。
中でも、ハートは特に詰まっていて、
かつての私から見ると、今の段階でもかなり
通ってきてるのですが、まだ奥の方で
固く閉ざしているものを感じていました。
以前はハートに鉄板みたいのが入っている、
と別々のヒーラー仲間の友人から言われたくらい
いつも重苦しかったのですが、
今はそれもなくなっているのに、
まだ奥の方で固いものを感じていたのです。
そこにエネルギーを通していこうとすると、
まるでハートを串刺しにされるような感覚があって、
とても気持ち悪くて嫌な感じでした。
でも、エネルギーは明らかにここを貫いて流れることを
求めていましたから、その流れを細く鋭くして、
針を通すようにハートを突き通していきました。
そうすることで、ズキっと痛みが走ったりはする
のですが、細く開いた通り道を広げていくほどに、
その痛みは落ち着いて消えていきます。
エネルギーが詰まっているところと言うのは、
基本的に、詰まらせることで
自分を守っているんですね。
なにか、痛みがあるからぐっと縮こまって、
それ以上痛みが強くならないように
かばっているわけです。
だから、そうやって縮こまったところ、
詰まったところを広げてやろうとすれば、
かばっていた痛みが生じるのは
当然です。
その痛みを甘んじて受けることで、
詰まりを解消していくんですね。
だから、エネルギーを通そうとするときは、
そのことを覚悟して、痛さや気持ち悪さを
深く命の呼吸をしながら、受け止めていきます。
ハートが痛むなら、かつてそういう痛みを
生じた出来事があったけれど、
当時はとても受け止められなかったから、
そうやって自分を守って、いつかこれが
受け止められる日が来るまで、
封印したんですね。
でも、もう今ならその痛みも
在るがままに受け止めてあげられます。
ちょっとズキっと来るかもしれないけれど、
でも昔、それで自分が生きていけないかも、
と思ったほど辛くもないし、
それで自分がダメになってしまうと
感じるほどでもありません。
それを感じても、自分の価値は損なわれることなく、
受け止めても復活してまた元気に生きていける
ことを肌で知っています。
ここまで来るのに、どれだけの道のりを
越えてきたのか。それだけ成長した自分を
褒めてあげましょう。
こんな風にして、一歩、また一歩と
これまでの自分ではできなかったことが
できるようになり、昨日までとは違った
自分になっていきます。
地道に、時に大きく揺さぶられながら、
今の自分はどれだけのことができるように
なっただろうか、と確認する日々です。