感情解放のセッションをしていると、
様々な過去世が出てくることが良くあります。
初めての方でも、それを見る必要性があれば、
割と鮮やかにその詳細まで出てきますが、
才能や能力がありすぎたがゆえに、
人間としての成長が滞ってしまった
人生なんかもよくでてきて、
人格(人徳)と能力は別物だな、
というのをつくづく感じさせられます。
と、大した能力も人格がない私が言うのも
なんですが、力に溺れるなよ、と
見せていただいているのだと思うのです。
たとえば、ものすごい霊能力があったがゆえに
周囲から特別扱いをされて、普通の人間が
体験するような人の機微にも触れず、
ただただ能力の器としてだけに徹していたとか、
能力によって何かしらの権力を得、
それを誤用して身を滅ぼしたとか、
天狗になって周囲に対する心遣いもできずに
周囲から反感を受けて墓穴を掘るとか、
まぁ色々なパターンがありますね。
能力があることは素晴らしいことですが、
私たちは能力の器である前に、一人の人間として
この人生を全うすべき存在です。
人間としての器が整って、初めて能力も
人々のために生かせるものになるわけで、
人間として生きることを疎かにしては
いけないだろうと思うのです。
まぁ、才能あふれる人はしばしば
普通の人の枠組みの中に納まらない
ということも多いのですが、
その辺り、魂がその人生で何を軸に生きようと
決めているかにもよるのでしょうね。
能力と、人間として生きることの葛藤の中で、
何かしらを見出していくのでしょうが、
変な道にそれると、そこに良からぬものとの契約とか
入ってしまうこともあったりなかったり。。。
見ていると、才能あふれる人の中には、
何となく怪しげなエネルギーの気配が絡んでいる
人もたまに見かけます。
そういうものにふと惹かれてしまう人も
ありますが、いかに見繕っても
割に合うものではないようには思います。
でも、その道に惹かれているときは、
これがなかなか、気付かないんですよね。
色々な意見はあるでしょうけれど、
人間として健全に、自分の能力を表現していく
努力からは、逃げてはいけないと思うのです。
能力ゆえに不幸になっていく人は、
コミュニケーションのところで
引っ掛かっていることが多い印象です。
先に挙げた、天狗になって反感を買うなどでは、
別に周囲の顔色を見る処世術を身につけろ
と言っているわけではなく、
そっと人の心に気づき、寄り添える優しさとか、
相手の存在にリスペクトの思いを持つこととか、
わざとらしい気遣いではないところの
眼差しがあったら、そんな風に周囲が
悪意を向けることはなかっただろうということが
結構あるんですね。
ワークでは、被害者と加害者の両方の側面を
必ず見ていきますから、そういうところを
掘り下げてみると、
やはり自分の中にも惨めさや悲しみ、
取り残されることへの恐怖があったりします。
これらが、鏡の法則を通して
互いを引き寄せるわけです。
能力があっても、こういうところは全く別で、
人間としてこれらを受け止め統合していく、
ということが課題としてあるだろうと思うのです。
私たちがこの世界に肉体をもって生まれてきたのは、
紛れもなく、人間としてあらゆる体験をすることが
目的として在るはずです。
この喜びも悲しみも、愛も憎しみも、怒りも思いやりも
栄光と称賛、嫉妬と裏切りも、この心と体で、
地に足をつけて生きることが大切です。
能力は、それらの経験をより豊かに彩っていく
ように使うのが、本当だろうと思います。
そうしたときに、私たちの心は安らぎ、
喜びと豊かさの中で、成長していきます。
能力があったがゆえに苦しんだ経験をした魂は、
しばしば能力を発揮することに対して強く
ブレーキを踏んでしまうことがあります。
けれど、そんな状態は自分にとっても、
能力にとっても、そしてその恩恵を受けるはずだった
無数の存在たちに対しても、不幸なことです。
幸せに能力を発揮してもいいのです。
過去の痛みの記憶は、癒していくことは
できます。
ただし、そこからきちんと何がいけなかったのか、
どこをどう間違ったのかを学び、方向転換
して行く必要があります。
ただ痛みを癒しただけでは、本当に
力を使う許可は、自分自身に出せないでしょう。
そこができると、能力はどんどん開花して、
周囲にとっても恩恵を与えるような
幸せのスパイラルが起こっていきます。
人格と能力は別で比例しない。
けれども、能力はその人の人生を拓いていく
カギでもあります。
どちらを磨くことがおろそかになっても行けません。
車の両輪のように、連動させ、バランスさせながら
磨いていきたいものです。