私自身は信仰と言うほどのものは
持ち合わせていないのですが、
サロンにも様々、信仰をお持ちの方が
多くお見えになります。
このブログではしょっちゅう神とかいう
言葉を使っているので、中には
私が熱心に何かの神様を信仰しているのでは
と思う方もあるかもしれません。
が、霊性修養のためにインドの神様を
礼拝したり、日本の神様に祝詞をあげたり
はしますが、本人の自覚としてはあまり
「信仰」と言えるようなものでも
ないかなぁと思っております。
ただ、自分の奥深いところの中心に、
確かに神がいた、ということを知った
個人的な体験があって、
それ以来、私の中で神は「信じるもの」ではなく、
ただ「そこにいることを知っている」
という存在になりました。
知っているものを信じる必要はないわけで、
だから「信仰」とはちょっと違うかな、
と思っています。
そうなると、
あまり宗教というものが関係なくなって、
ただ神と私の個人的な関係だけがある、
という感じなので、
世界中の様々な神様がいらして、
それぞれ神格や個性のようなものがあるのですが、
それはそれで敬い、かしこむべき存在として
礼拝はしますが、細かいことはよくわからない
という、ゆる~い認識でおります。
それが良いのか悪いのかはよくわかりませんし、
専門の方からすればもっときっちり認識すべきだ
とおしかりをいただきそうですが、
本人的には、インドの神様も好きだし、
神社に行って日本の神様にまみえるのも
ものすごく清まる感じがして大好きだし、
はたまた、ムスリムの過去世もあるので、
モスクも行ったことはないけれど、
あの雰囲気もたまらなく懐かしい感じがして
好きです。
キリスト教には魂的にも色々あるのですが、
真摯な祈りの場としての教会も、ホーム
という感じはしないけれど、いいな、と思います。
その他、様々な信仰の形態がありますが、
それがどんな形であれ、
自分の本質に深く根を張る方向に働くのでなければ、
あまり健全ではないし、本当ではないだろう
と私は思っています。
だから、信仰が依存になってはいけないし、
サレンダーが、ただの逃避になってはいけない。
信仰するほどに、自分の根を腐らせ、
自分では立てなくなって依存する人もいるし、
すべてを信仰の対象に委ねるのだと言って、
自分で識別することを放棄し、盲目になって
いる人も見かけます。
でも、信仰が本物であるのなら、
サレンダーは本当に自分自身で地に足をつけた
ところからしか成り立つものではない、
と私は感じます。
識別に識別を重ね、この世界に深く根を張り、
自分自身と対峙することなく、どうして
委ね切ることなどできるでしょう。
信仰のかさを着た横着と惰性は
百害あって一利なし、です。
スピリチュアルについても、
逃避だという人がいるけれど、
これまで10年ほどスピリチュアルの世界にいて、
どうしてこれが逃避になんかなれるのか、
私には不思議で仕方ありません。
本気でスピリチュアルやってたら、
逃避先なんかにはなり得ないし、
それどころか、きついことの方が
ずっと多かったです。
ぼやぼやしてたら足元すくわれますし、
自分で真偽のほどを識別していかなければ
いけません。
慢心していたら痛い目を見ますし、
あらゆるところから、お前の在り方はどうなんだ
という問いかけを受け続けます。
まぁ、どんな分野でも同じでしょうけれど、
目に見えない分野で、特に信仰も
スピリチュアルも、心に余裕のない時に
目を向けがちなものである分、
余計に「良識」や「常識的な目」も
必要であるかな、とは思います。
力のある人に見えるから、と
妄信的に信用して判断をゆだねたり、
グッズを買いあさったりするのは、
健全ではありません。
信頼すべきは、自身の内側にいます神であり、
識別の基準は自身の神を感じる感覚なのです。
それは、何も特別な人にだけ与えられた
特権ではありません。
すべての人の中に神はいるのであり、
人は本来、その神と対話するのが自然だと思います。
かと言って、抑圧に抑圧を重ねた感覚ですぐに
それができるとも思いませんが、
少なくとも、自分で感じ、識別すること、
自分自身に対峙し、この現実に誠実に根を張って
生きることから逃げてはいけない、と思うのです。
それをかわりにやってやろう、
という存在には、注意すべきです。
横着、慢心、怠惰な心の隙に、
良からぬものは忍び寄るからです。
健全に、自分自身の霊性を深めていくために、
どんなにすごいと思う人の前でも、
自分自身の内なる神の尊厳から離れないように。
霊性の甘露を得たい人は、
よくよく心にとどめ置かれますよう。