ここ1か月ほど、何となく心が沈んで
胸のあたりが重く、ワークをしてもなかなか
すっきりしませんでした。
けれど、あることがきっかけで
ふとした気づきがやってきました。
それは、現実は私の理想とは違う、
ということと、
何も悪くはないし、誰も責められるべき人はいない。
私の理想とは違っていても、それで良かったのだ
ということを受け入れよう、と思ったのでした。
現実は私の理想とは違うって、
ずっと前から知っていたことでした。
でも、今回の気づきはそれまでとは違いました。
現実が、どんなにうまくいっていないように
見えても、失敗だった、と思えても、
いつもだったら私は自分を責めたでしょう。
そうして、間違い探し、悪かった所探しをして、
それを改善しようとしたと思います。
どんなに自分の最善を尽くしても、
事ならぬことは絶えぬものです。
そういう現実に接するたびに、
自分の未熟さ、無力に打ちひしがれるのでした。
そうして、改善、精進が実れば
安堵し、少し自信を取り戻しますが、
そうでないと、私は自分を疑い始めます。
この、自身に向けた疑いの眼差しは、
強烈に私の心の健全性を蝕み、
エネルギーを奪っていきます。
今回もそのパターンにハマりそうになって、
ふと気づいたのでした。
まてよ。
この疑いの眼差しは、おかしい。
そうじゃない、と。
私はまず自分を疑うのをやめました。
そして、うまくいかなかった原因探しも
やめました。
ただ、起こったことを在るがままに認めるのと
同時に、それで良かったのだということも
認めることにしました。
今まではそれができなかったのですね。
何かが悪かったから
こんな結果になってしまったのだ、
と「悪者」を見つけなければ
気が済まなかったのです。
でも、もしその出来事において、
「悪者」などいないのだとしたら。
それはそれで何の問題もなく、
宇宙の完全なる調和の中にあるのだとしたら。
それを認めるのは私にはかなり抵抗が
ありましたが、自分の未熟さへの言い訳
ではなく、認めようと思いました。
それは失敗なのではなく、完全なのだと。
そうしたときに、その出来事によって生じていた
重苦しいエネルギーは依然として私の中で
わだかまっていましたが、
過剰に背負い込んだその出来事の「責任」が、
ふっと消えてなくなりました。
私の中の重苦しい苦悩を自分で受け止めること
を含めて、そこに完全なる世界が現れました。
今までは不完全な「問題のある世界」だったのに、
一瞬でそれが変容してしまったのですね。
変に背負い込んだ重苦しい責任が消え、
出来事は私の手を離れました。
元々それは、私の手の内のものではなかったのです。
それなのに、自分で抱え込んでいたんですね。
その瞬間に、随分長いことプレゼンスに居ることの
できなかった意識が、「今ここ」に戻ってきました。
師と仰いだレナードがずっと言っていたのに、
私は気づけなかったのだな、と
今になって師の言葉の意味が私の中に
入ってきました。
現実は、私の理想には必ずしも沿いません。
そのとき、現実と格闘していくことで、
深くマインドの世界に迷い込んでいくのです。
ここで言うのは、努力して目標を達成すること
とは違ったレベルの生き方の話です。
私はもう長いこと、現実と格闘し続けて、
その終わりのない戦いに疲れ果てていました。
今、その戦いをやめて、在るがままのこの世界の
完全性を受け入れたとき、自分が別の世界に
来たような感覚がしました。
都合の良い逃げ口上としてその概念を使うのではなく、
自分の中の苦悩も含めた世界の完全性を認め、
生きたとき、
あれもダメ、これもダメ、足らない、問題だ、
不完全だ、もっとこうすべきだ、こうあるべきだ、
と止むことのなかったエゴのジャッジメントから、
ようやく離れることができたのです。
そのことがあってからさらに、
なおも私の中で消えることのなかった
無力感、虚しさ、悲しみを、
自分ではどうしようもできなくて、
ある聖者に委ねることにしました。
「私にあなたの苦しみを預けなさい」
と言っていたその言葉の通りに、
私の無力感、虚しさ、悲しみを
背負ってもらうことにしたのです。
私は、深く深くそれらを私の内に感じながら
祈りました。
1人でどうにかしようとしていた時は、
どうしても蓋が外れなくて、
詰まってしまって苦しかったのです。
でも、聖者にそれらを背負ってもらったら、
蓋が外れてやっとそれらが出てこられました。
魂の旅路のどこかで味わった、
圧倒的な現実を前に打ちのめされる自分。
ずっと無力な自分を責め続けてきたけれど、
誰も悪くはなかった。
その現実も、完全だったのだと認めて、
ただただ自分の気持ちを受け止めていました。
何度も何度も滲み出てきていた
無力感や虚しさは、ここから来ていたのですね。
自分の中で、無力感、虚しさ、悲しみの底が
抜けたような感覚があり、胸のつかえが抜けました。
今の自分なら、これらの気持ちにも
以前よりもっと寄り添えるな、という感じがあり、
ここを越えさせてくれた聖者に心から
感謝を伝えました。
聖者の恩寵は、それを求めるものには
直ちにもたらされるものです。
祈ることは、ただの気休めではありません。
すべての人の上に、恩寵が常に降り注いでいるのです。