日々、仕事や何やらで人の意識というものを
観察していると、なかなか面白い気づきが
あったりします。
たとえば、とても活発で自分のことを何でも
オープンに話しているように見える方でも、
ある部分に関してはがっちりガードしている
様子がうかがえたり、
いつも何となく落ち着きのない様子のある方は、
普通に人とコミュニケーションしているように
見えて、人との間に全体的に膜を張ったような
感じで接していたり、
そつなく誰とでも対話しているように
見える人でも、ある領域に関しては、
ごっそり意識が欠落していたり。
自分を含めて、意識があらゆるレベルに均等に
行き渡っている人はなかなかお目にかかれませんし、
その在り様がそのまま、その人の刻んできた
歴史でもあるんですね。
だから、どうしてその人はそんな意識の在り方を
しているのだろう、と読み進めてみると、
そこに、「あぁなるほど、だからか」という
必然があったりします。
一口に、ある部分の意識が欠落している
と表現しても、その在り様は一様ではありません。
自分でも欠落している、という意識がまったくない
ケースもあれば、どこかでうっすら気づいている
ようだけれど、敢えて触れたくはない様子だとか。
人それぞれ、その質感、微妙なニュアンスが
違うんですね。
私自身も、自分の意識のどこかがごっそり
欠けているな~と気づいてはいても、
どこがどのようにどのくらい、とか
具体的なところは自分ではよくわかりません。
人のはよくわかるんですけれどね~。
自分のことって、わからないですね。笑
まぁ、そうした意識の状態というのは
良く体にも反映されるのですが、
それが物理次元では体の使い方の特徴に表れますし、
病気などとして出てくることもありますね。
あるいは、身体全体の意識の重心というのも
あって、胸にある方もあれば、肚にある方もあるし、
頭に極端に偏っている方もあったりします。
また、意識の深さ、というのもあって、
三次元レベルのどこ、というのではなくて、
同じ場所に意識があっても、深さの方向性の
意識の奥行もあります。
たとえば、肚に意識がある、と一口に言っても、
その肚を、その人がどのレベルの奥行まで
意識が到達しているかで、存在感は
まるで違うでしょう。
こういうことは、ヒーリングをするときにも
影響があって、ヒーラーがどのくらいの
奥行の意識に到達しているかで、
同じヒーリングをやっても、エネルギーが
届く領域が全く違ってきます。
初心者と熟達者の違いは、
そういうところにもあるんだろうと思います。
また、特にヒーラーによって得意としている
領域などがあったりしますよね。
そこが、ヒーリー(ヒーリングを受ける人)
のニーズに合致すると、かなり良い結果に
つながります。
そういうことも、相性ということの内に
なるでしょう。
なぜその人がそのように在るのかを知ることは、
その人の歴史を読み解くことであり、
またその可能性を知ることでもあります。
因果を知らずに、全く別のものをかぶせて
変えようとしても、それはうまくいきません。
逆に、因果を踏まえたうえで、どの土壌に
適切な処理をしてやれば、良いところを伸ばし、
弱いところを補ってさらに高い可能性を
引き出すこともできるでしょう。
よく、在りのままの自分を認めると言われますが、
ある意味それは、自身がこのように在ることの
因果を受け止めて見ることでもあるのかな、
と思います。
砂漠を歩いてきたから、足元が砂だらけだね~とか、
泥道を歩いてきたから、靴がどろどろだ~とか、
長年、ヒールを履いてダンスを踊って来たから、
足にタコができているとか。
だから良いとか悪いとかではなくて、
そういう道を、自分は歩んできたんだと
認めること。
そういう風に、自分の歩んできた道のりを
踏まえたうえで今の自分を見られると、
単に、埃っぽい足元とか泥だらけの靴、
あるいはタコのできた足だけを見て
それを責めるようなことは
しないんじゃないでしょうか。
今の自分から、己が辿ってきた足跡を
振り返って見たとき、その一歩一歩に
その時の気持ちや思いが刻まれているわけです。
その思いに、寄り添ってあげることができたら、
もっと自分に優しくなれないでしょうか。
自分だけではなく、他者に向ける眼差しも、
違ってこないでしょうか。
ここまで生きてきた、命がつながってきた
ということの事実の中に、とてつもない
重みを感じるのではないでしょうか。
今、自分がこのように在るということ、
癖もあるし、苦手もあれば得意もある、
ということの中に、
膨大な因果の糸があり、その一つ一つに
無数の人々の思いが絡み、刻まれています。
どこまでそうしたことに意識を向けられるのか。
それが、ヒーラーに限らず、人としての
思いやりの深さや人徳につながるのだろうと
思います。