29日から1日にかけて、日ごろお世話になっている
産土さまやご縁のお社にごあいさつに回っていました。
どこも大盛況でしたね。(^^)
日本人って、宗教を熱心に信仰されている方って
そんなに多くはないと思うのですけれど、
大らかに、生活の中に溶け込んだ信仰って
やっぱりあるんだな、としみじみ思います。
突き詰めて求めていく信仰もアリだし、
何となくイベント的に入って行くのも、
それはそれで入り口としてはアリだと
思うんですよね。
触れていく中で、気づくことや、感じること、
もっと知りたい、近づきたいという思いが
育っていくこともありますから。
そうして近づいたときに、
そこで修行されていたり、真摯に思いを寄せている
人たちの在り方に触れて、何ごとかを学び取っていく。
そのようにして、自然に感化されていくことで、
私たちの精神は育まれていきます。
本質というのは、そんな風に伝えられるものであり、
逆に言えばそのようにしてしか伝えられない
ものなのではないでしょうか。
親が子に伝えるもの、
師が弟子に伝えるもの、
先生が生徒に伝えるもの。
目に見える論理体系やテクニックは、
そんな風にして伝えられたものがあって
初めて生きてくるもののような気がします。
一方で、これは負の側面に関しても
言えることで、知らぬうちに
自分の意識にしみ込んで、
制限的な意識の土台になっていたり
することもありますね。
だからこそ、自分が何に接しているか、
注意深く選別していくことも
大事だろうと思うのです。
望ましくないものに触れている、と気づけば、
変えていけるのならどんどん変えていけばいいし、
自分ではいかんともしがたい状況であるなら、
それに触れざるを得ない状況が差し出す学びを
しっかり受け取って、きちんと「卒業」
していきましょう。
頭で「私はもう関わらない!」と
バッサリ切ったとしても、
「卒業」になっていなければ
戻ってきますからね。
頭だけでどうにかしようとしている人も
よく見かけますが、人生が差し出している
メッセージは、そういう小手先のことでは
完了しないのです。
その出来事の「種」は何なのか、
そこを明確につかまなければなりません。
自分がどの方向に行きたいのか、
ビジョンを描くことと同時に、
今の自分にきちんと対峙できる力というのは
車の両輪のようなもので、どちらが欠けても
人生は迷走してしまうと思います。
どんなに素敵なビジョンが、まるで啓示が
降りてくるかのように自分にやってきたとしても、
それをこの世界に落とし込んでいくプロセスは
飛び越えていくことはできません。
まぁ、奇跡のような流れの連続で
どんどん行く場合もありますけれど、やはり
地に足がついていることは必須だと思います。
思うに、地に足がついているというのは、
心と体と魂のエネルギーが、この世界に
しっかり循環していることでもある
ように思います。
いかに素敵なビジョンを描いても、
この世界から遊離していたら、
嘘っぽく聞こえます。
頭だけで、心にエネルギーが回ってない状態で
夢やビジョンを語ったり、
自分の体を否定して、魂だ何だと言っても
それは本当に魂の望む在り方なんだろうか?
と思うし、やっぱり真実の響きが感じられません。
そのビジョンを実現したいのは、
どこの世界においてなのでしょうか?
この人生、この世界においでてではありませんか?
であるなら、この世界に、とことん
向き合わなければいけませんね。
自分を含めた、他者と、様々な状況と。
そういうことで、
私たちは自分を知っていくのでしょう。
それが、私たちがこの世界に生きる理由
なのかもしれません。
私たちはどうやったらいい状態で
自分というこの存在を
この世界で響かせられるのか。
諦めなどで断ち切った可能性もあるかもしれないし、
そういう道が復活する可能性もあるかもしれない。
あるいは、全く違った可能性に気づいたり。
トライ&エラーを繰り返しながら、
日々研究ですね。
そうやって人生と対話していくのが
苦手な人は多いけれど、
どんな達人であっても、
まだまだ未熟という人も、
その段階段階で、それなりにあるものですよね。
だから、人との比較は意味をなさない。
私は今、宇宙に二つとないこの自分という
プログラムを生きているのだから。
だから、どんなに不器用でも、格好悪くても、
挑戦してみたらいいと思います。
ただし、自分を大切にして、
深刻になりすぎずにチャレンジを楽しむこと。
自分で自分を傷つけないこと。
これ、結構大事なポイントですからね。
この人生という旅が、
楽しいものでありますように。