人間、どこかに自分を律する思いを持っていないと
どこまでもズルズルしてしまうものだと
常々思っているのですが、
それはことさらに厳しい修業をして
厳格に「理想の自分」に近づけようという試み
ではなくて、
自身の品格と尊厳を保ち、心を清々しくする
ためのものなのだろうと思うのです。
そんなことを思ったのは、最近、
あるお寺の法会(ほうえ)の詳細を記した本
を読んだのですが、
そこに記録されたお坊さんたちのひとつひとつの
立ち居振る舞い、所作、作法の美しさに
心を打たれている著者の感動に、
思うところがあったからでした。
素絹に紋白五条の袈裟をつけたその一団は、
リズミカルな裾さばきの音とかすかな香りを残して
わたくし共の前を通り過ぎていきました。参籠宿所の前に待ち受ける寺僧に無言で一礼して、
それぞれ定めの部屋に入ります。大仏殿の西にある
戒壇院での別火精進(世間と火を別にして生活し
心身ともに浄化する)を終えて、本行を勤めるべく、
二月堂下の参籠宿所に移動する作法(参籠宿所入り)
の情景でした。
「東大寺 お水取り 春を待つ祈りと懺悔の法会」佐藤道子著 朝日新聞出版
著者はこの場面について、何がこれほどまでに
自分の心をひきつけたのかと自問したときに、
それはこの一団を包む「慎ましやかな覚悟」
だと思い至ったと言います。
何と美しい表現だろうかと
私は感嘆せずにはいられませんでした。
たまたま図書館で手に取った本でしたが、
思いのほか学ぶところの多い本でした。
それもひとえに、著者の研ぎ澄まされた感性から
紡ぎ出される折々の描写の美しさ故かもしれません。
著者は、40年余りをこの法会に携わって
過ごしてこられたとのことですが、
そういう感性も、そうしたお坊さんたちの
在り様に接する中で育まれたものではないか
と想像しました。
朱に交われば赤くなると言いますが、
自分がどんなものに触れているかで影響され、
自分の中に確かに醸成されていくものがある
と思うのです。
それは自分の本質ではなくて、後付けされた
ものなのかもしれないけれど、それでも
そういうものに心を配り、自分を育んでいくことは
大切なことではないかと思います。
どんな人たちと付き合い、どんな人とは関わらないのか。
子供のころは親がそれを決めますが、
ある程度の年齢になったら、自分でそれを
決めなければいけません。
その時に、ちゃんとそれを決められる基準が
自分の中に健全に育っていることは、
人生を大きく左右するでしょう。
人生、何でも勉強だよ、と言います。
もちろんそうでしょう。
色々な勉強がありますけれど、
自分がどんな人間になりたいのかが定まっていれば、
そのためにはどんな勉強をするべきなのかが
自ずから見えてくるでしょう。
自分が何者なのかまだわからなくて、
ビジョンが定まっていないのであれば、
日々の体験から、嫌だと思うこと、
憧れを抱くもの、心に響く何かを
丁寧に意識していくことです。
そこから、お手本にすべきもの、
反面教師など、いかようにでも
学ぶことはできるでしょう。
そういう意味で、
人生のできるだけ早い段階で
「学び取る感性」を養うことは、
宝になるな、と思います。
私は生憎、そういうものが養われたのは
ようやく最近ですけれど。。。笑
素晴らしいもの、優れた人、一流のものに
触れることの重要性は、そういうところに
あるのでしょうね。
まぁ、触れていても気づかない、
学び取る感性が育っていないと
ザルのように残らないということも
ありますが、
意識していくことで、
感性に引っかかってくるものが
増えてくるでしょう。
そうして、段々と感性の目が細かくなり、
気づくことが多くなってくる。
やがてその目は、常の人が気づかない
別の世界を見るようになります。
そうなったらもうその目自体が
その人の武器であり才能になります。
そういうものは、人生をまたいで
持ってけるものなんですよね。
特に学んだり練習もしていないのに
最初から人より優れた能力を見せることは、
前の人生からのギフトなんです。
この人生で、さらに磨きをかけていきましょう。
人の在り様は、黙っていてもその人の周囲の
空気に表れます。
それは、その人がどんな風に生きてきたのか。
一朝一夕ではない人生の履歴書なのです。
嘘や誤魔化しの効かないところですね。
流されやすい身なればこそ、
自分を尊厳ある領域にとどめおく杭となる何か
が必要なのです。
そしてやがてその在り方が定着し、
自身の血肉、骨になったとき、
杭がなくても崩れない、流されない
本物の何かになっているのかもしれません。
願わくば、清々しく、堂々たる品格が
我が内に養われんことを。