日々、人間対人間の、最もピュアなところを
見つめながら仕事をしていると、
相手の方が「仮面モード」でいるとき、
以前よりも、格段に違和感を強く
感じるようになりました。
セッションの時などは、相手の方が
表面的に見せる姿とその奥の違いは
取り組むべきポイントの重要な示唆を
与えてくれます。
セッションを受けてくださる方は
何かしらの気づきを求めている方なので、
それはそれで語り掛け、問いかけていく中で
多かれ少なかれ、そのズレの修正へと
導かれていきます。
けれど、しんどいな~と感じるのは、
そういう共通の合意事項のない立場で
相手と話さなければならないときです。
多いのは、業者さんとのやり取りとか
たまに営業でやって来る人など。
お仕事モードに違和感を感じる
というわけではなくて、
その人が見せている姿と
内側が放っているものが違うことに、
非常に戸惑いとともに居心地の悪さを
感じるのですね。
別に悪い人だったり、何か詐欺を働こう
とかいうことではないのですが、
表面的にはとても爽やかな笑顔を作っているのに、
内側にものすごい怒りをため込んでいる
といったことです。
ご本人は多分自覚されてないと思うのですが、
ものすごく抑圧の強い方です。
ただ、見せている姿と内面が違っても、
それほど息苦しさを感じさせない人もいて、
その違いは何なのだろう?と不思議に
思っていたのですが、
本人が内側にある自身の側面を、
徹底的に否定、拒絶し、封印しているかどうか
の違いかもしれないな、と思いました。
否定拒絶していても、まだその側面が
息をしている状態で分離が完全でなければ
そこまでの違和感は感じないのですが、
徹底的に否定拒絶し封印していると、
ある種、その人の一部が死んでいるような状態
として私には感じられます。
それが強烈であればあるほど、
私にはそれがはっきりと感じられてしまうので、
とても息苦しく感じられてしまうのです。
多分、こういう方は、深いところで
自身のある部分を切り捨ててきているので、
仕事モード、プライベートモードにかかわらず、
その分離は人生のあらゆる側面に、苦しさを伴う
影響を及ぼしているだろうな、と思います。
そういう人を感じながら今この文章を書いていて、
ふと思い出したのは、大学卒業後に最初に就職した
会社の上司でした。
まさに上記のような在り方の典型だったな~と
今にして思うのですが、その上司の場合は
あからさまなズルさと裏表ある態度として表れていて、
多くの人から嫌われ、信頼されていませんでした。
もう20年以上も思い出したことはありませんでしたが、
なるほど、このテーマは随分前から私に
差し出されていたのですね。
受け取るまでに随分かかりました(^^;
つまり、あれはお前だぞ、ということですね。
私には、徹底的に拒絶、封印した側面がある。
Yes or No?
とハートに問いかけた途端、大きな声で
Yes!と間髪入れずに返ってきました。
これまで随分統合を進めてきたけれど、
まだまだあるのね~!伸びしろが!笑
「鏡」となってくれた人たちを
じっと見つめていくと、彼らに共通していたのは
「違う!自分はそんなんじゃない!」という
思いでした。
あくまでこれは「鏡」なので、彼らの真実
ではなく、私自身の内面を映したものです。
私は、自分自身がしたあることを
人から咎められたときに、動揺して
否定してしまったのでした。
人から向けられた批難と蔑みの視線が
どうにも耐え難く、また自分自身のズルさと
弱さが自分でも受け入れがたかったのです。
今生もあるし、過去世もありますね。
私はそのように卑怯で弱く、薄汚い人間です!
と認めるのが嫌だったのですが、
今はっきりとそれを認めると、
私の人生の中で繰り返し引っ掛かっていた
自分の非を決して認めない人たちの姿が
走馬灯のように駆け巡っていきました。
みんな、つながっていたのですね。
そして、とても腑に落ちました。
そういう解放が起こりつつ、
胸の奥にギューッと抵抗している何かが
ありました。
「違う!私じゃない!」と声は叫んでいました。
そして、「真実に耐えられない」と。
でも、私は真実が自分を癒すことを知っているし、
耐えられないわけがないことを知っています。
だから、私は真実に帰ることを選びます。
これまで、繰り返し自分に誠実であろうと
してきましたが、どこか微妙なレベルで常に
そうではない可能性を感じていました。
それが、ここに由来していたのですね。
こんなにも自分の深いところに嘘があった
というのは衝撃でしたが、気づけて良かった
と思います。
まだまだ自分の中に薄暗い側面が
埋もれているんだな~と思うのと同時に、
それを隠したがる自分がいるというのも
よくわかりました。
これからも、どんどんそういう不誠実な仮面に
光を当てていきたいと思います。