自分にとって、何が本当に目指すべき姿なのか、
それを正確に知るって、なかなかのことだな~
と最近よく思います。
世間には、「これが幸せなんだよ」という
テンプレートみたいな社会通念があり、
それを四六時中、私たちは否応なく
見たり触れたりしています。
街を歩けば、車内広告やら看板やらが至る所に
目につきます。ほんと、もう隙間がないくらい、
考えられるありとあらゆるところにありますね。
テレビや雑誌なんかでも、四六時中
「これって素敵じゃない?あなたもどう?」
と消費を誘いたい広告主の意図を刷り込む
キャッチフレーズや美しいビジョンが
流されています。
それは私たちの無意識レベルでしっかり入ってきて、
自分自身の本来の理想を覆い隠してしまうのです。
ここのところ、ずっと求めていたものが
実は刷り込まれた願望だったということに
気づいて以来、
では本当に「唯一無二の自分」にとっての
「唯一無二の理想像、あるべき姿」って何だろう?
ということを考えています。
そこに意識を向け始めると、
私の望んでいることは、世間一般に言われる
幸せ像とは随分違ったものになるのだな~
ということが、何となく見えてきました。
今までそれを認めることは、どこか罪悪感があって、
そういう自分でいてはいけないんじゃないか、
もっとこんな風に明るく元気よく、人から魅力的に
見えなくちゃ人間として女性としてダメでしょ、
みたいに思う気持ちが抜けませんでした。
自分の弱さや受け入れ難い側面を受け入れる
と言うのはずっと取り組んできても、
この刷り込まれた理想像に抵抗するのは
何だか後ろめたかったんですね。
でも、どんなに努力しても、借り物の理想像
には何の魅力も感じられなくて、
いくら頭でそう在るべきだと駆り立てても、
結局続かないんですね。
だから、当然うまくいかない。
今の私の人生でうまくいっていないことって、
やっぱりそういうことなんだろうな~
って認めざるを得なくなったわけです。
つまり、それに頑張ることは、
私には必要ない!ってこと。
もう宣言しちゃうしかないですね!
全然興味ないし!
私には必要ない!
私が愛するもの、在るべき姿は
私自身が決める!
は~、すっきりした。笑
そんなこんなで、「借り物の理想」を
ゴッソリ捨てた後で湧き上がってくるのは、
じゃぁ私の在るべき姿ってどんなものだろう?
ということ。
「在るべき姿」という表現は適切ではないのかも
しれないけれど、ここでは、自分が本当に
魂の願いを生きたときに体現している姿
と定義しておきたいと思います。
アラフィフの年代に入ってきて、
あと数年で50になりますが、
(わぉ!自分でびっくり!)
その年になったときに、
どんな自分でいたいかな~?
というビジョンを考えてみました。
頭で考えると、こんな感じ、こんなエネルギー
っていうのはあるのですが、
いやいや、それは頭だから、と思って
魂の深いところに問うてみました。
この人生で、私の魂が命を懸けて、人生を懸けて
体現しようとしていることは何なのか?
奥底にしまい込まれたそのビジョンに、
もう素直に従ってもいいのかな。
あーでもないこーでもないと、
できない理由を恐れの感情から際限なく
かぶせてみても、結局自分の人生を
生きたことにはならない。
恐れから来る声には微塵も従わず、
純粋に、その内なるビジョンに集中し、
概念ではなく、本当にこれを実践していく。
そこまで見えてくるにつれて、
自分のエネルギーがにわかに動き出しました。
今までは、恐れの声と内なるビジョンの
バランスを取ろうとしてきたのだけれど、
それではうまくいくことはありませんでした。
両方のバランスを取るのではなく、
完全に重心をシフトしないといけなかったんですね。
これも実は今まで何度もトライしているものの、
恐れの声の威力は絶大で、越えられませんでした。
頭では、恐れは幻だと理解していても、
心の内では現実だと信じていたわけですから
越えられなかったはずです。
でも、そろそろいけるかも。(^^)
自身の内側からあふれ出るビジョン、エネルギーが
自分の人生を生きることを許そう。
はじめてそう許可することができました。
今まで、必死でエゴが人生の舵取りを
してきたんですね。
私のエゴも、割と善良ではないかと思うのですが、
それは荷の重い仕事でした。
その重荷を下ろしてあげて、
うちから湧き上がるこの光に、
バトンタッチさせてあげようと思います。
今まで、どうしてこれができなかったんだろう
と思うのですが、私なりの積み重ねとタイミング
が必要だったのでしょう。
以後、この内なる光に意識を合わせて
生きていこうと思います。