人は、自分が正しいと思っているとき、
間違ったことをしているように見える相手の
心の内を慮ることは、なかなか難しいですね。
ましてやその「正しさ」が一般常識や倫理的、
道義的に叶うものであるときに、
相手を断罪し、責め立てる思いが湧いてきて、
どうしてアイツはわからないんだ!
あり得ないだろう!
何とかしてアイツを更生させねば!
とか思って、自分の正義を振りかざして
相手に押し付けようとしてしまうのです。
あからさまにそう言わなかったり
行動をしなかったとしても、
多かれ少なかれ、こんな思いが
あるのではないでしょうか。
でも、
そういう視点からどれだけ話をしようと
決して相手は納得もしないでしょうし、
分かり合えることはないでしょう。
相手があなたと違う意見を持って
そのように行動するのには、
その人なりの事情があります。
そうならざるを得ない必然の構造が
背後にはあるのであって、
それを無視して「お前は間違っている」
と言ったところで、
「あなたに何がわかるのよ」
と返ってくるのがオチです。
相手にしてみれば、
こちらの表面的なところしか見ないで
自分の考えを押し付けてくるあなたは
何と浅はかなのだろう、と思うでしょうし、
ますます心を閉ざすでしょうね。
自分が正しいと信じて疑わない時、
自身の正当性から降りてものごとを見ることは
とても難しいと思います。
でも、あなたがもし本当に相手と和解したかったり
そうせざるを得ない状況に在るのだとしたら、
いったんその正当性を脇に置いて、
相手の視点に入ってみると良いと思います。
(抵抗が強いとこれもできないことが
ありますけれど。。。)
すると、相手なりの事情というやつが
見えてきます。
関係性がこじれているときは、
どこかで互いに傷ついた気持ちが
あるような気がします。
わかってもらえなかった。
誤解された。
裏切られた。
大切に扱ってもらえなかった。
見捨てられた。
否定された。
などなど。。。
そう思ったときの気持ちを
相手の視点に入った状態で
受け止めてみたら良いでしょう。
悲しい。
悔しい。
辛い。
無力感。
絶望感。
喪失感。
などなど、ですね。
相手の視点で受け止めたこれらの感情は、
実は、あなた自身の中にそっくり同じものが
あります。
相手を鏡として、自分の中にあるものを
映して見ていただけなんですね。
だから、相手のものを受け止めたようでいて、
実は自分の中の未完了の感情を受け止めていた
わけです。
ここが統合できると、
まず相手から見たあなたの見え方が変わります。
強硬で対話の余地がなかったように見えていたのが
もっと話しやすい雰囲気になって、
分かり合えそうな感じに見えるのです。
あなたの側から相手を見ても、
相手の中にあった自身と同じ痛みに
反応することがなくなるので、
相手を許せるようにな気持ちになるんですね。
もはやあなたは相手を責めてはいないでしょう。
するとその在り方のバイブレーションが
相手に伝わって、相手の態度も
軟化します。
言ってみれば、相手をそこまで強硬姿勢に
させていたのは、あなた自身の在り方のせい
でもあったのです。
頭ごなしに言われることほど
自身の尊厳を傷つけられたと感じることは
ないでしょう。
そうではなく、
本当に相手の辛さに触れ、受け止めたうえで
「君の辛さも、わかるよ」と言ってもらえたら、
どれだけ心が緩み、信頼の感覚が生まれる
でしょうか。
ただ、これは口先だけでやっても
気持ちが悪いだけですから
そこは注意してくださいね。
それを言う人が、本当にその気持ちに触れ、
統合できたところからでないと、
嘘になるからです。
思うに、心の器って、
どれだけ相手の痛みを受け止められるか
というところで決まる部分があるかな、
と思います。
そしてそれは、我を見失うことなく
相手の痛みを見たことで自身の内にトリガーされる
あらゆる不快感や痛みを受け止められなければ、
できないことなのです。
だから、結局はどれだけ自身の痛みを
統合できたか、がカギですね。
それができる人は、もはや自身の正当性に
固執することはありません。
我と彼との間の境界線は、限りなく薄くなり、
かといって不用意に侵害することなく、
「一続きの自分」として相手を尊重することが
できるでしょう。