自分に本当に向き合っていると、
嫌でも醜かったりズルかったり弱い
自身の側面に気づいてしまいますね。
気づいてしまったけれど、
無かったことにしたい!と咄嗟に
蓋をしてしまう人もいますし、
とてもきついのだけれど、
しっかり直視してそういう自分を認め、
受け入れ、統合していかれる方も
あります。
こんな自分、認めたくない、
認めてしまったら、本当にそういう自分に
なってしまいそうだ、というセリフも
セッションの中ではとてもよく聞くのですが、
認めようが認めまいが、
そういう側面があるということは、
紛れもない自身の事実です。
その事実を否定して無かったことにしてしまうと、
それによって生じていたあらゆる苦しみも
同時に「無かったこと」になってしまいます。
けれど、無かったことにしたからと言って、
苦しみは消えるわけではありません。
しかも、「無いもの」にはそもそも
触れることができないので、
対処できなくなってしまうのです。
こうして、その人は自分が抹殺したものに
延々と苦しめられる時間が続くのです。
一方、認めがたい側面も
これが私なのだ、と本当に認められれば、
その瞬間からそれが持っていた
重苦しい深刻さは消え、
そのことが自分を苦しめることは
なくなっていきます。
否定し、隠すから、自らこじらせて、
状況を重く、深刻なものにしてしまうのです。
故に、いくら認めがたくても、
謙虚に、誠実に在るがままを認める方が、
苦しむ期間は短く済みます。
虚構の自尊心にしがみつく人ほど、
認めがたい側面を認めることへの
ハードルは高くなると言えるかもしれません。
頑なな虚構の自尊心によって支えているのは
見た目とは裏腹の、薄暗い後ろめたさ
かもしれません。
それは、心の奥底で決して開いてはいけない
扉の奥に、厳重にカギをかけて
絶対に知られてはならないものとして
封印されています。
本人も、注意深く
「私はそれではない」という風を
取り繕い、
外側にそういう要素を持った人を見れば、
即座に反応して徹底的に攻撃したり、
できるだけ遠ざかろうとします。
それとともにいるなど、
とても心穏やかではいられないからです。
なぜなら、それは自分の中に
固く封印した「決して認めてはならないもの」を
思い起こさせるからです。
さて、ここから微妙な話題に入って行くのですが、
最近何度か話題に上げている
「スピリチュアルな契約」というものがあります。
本格的に儀式などをして意識的に結んだもの
もあれば、何気ない会話の中でするっと
入ってしまっている契約もあり、
ネガティブなものばかりではないのですが、
相手が「良からぬもの」の場合は
最終的には人間の苦しみや血や涙と
引き換えになっていると思っていいでしょう。
でも、契約を結んだ時は
気づかないんですよね。
うま~く言いくるめられて、
足元をすくわれている。
セッションの中で、しばしばこういうものが
エネルギー的に引っ掛かってくることが
あるので、あながち幻想とばかりも
言っていられなかったりします。
で、ヤツらはどういうところを狙ってくるか
というと、先ほどお話した、
人に知られてはいけないと必死で隠している
薄暗い後ろめたさや恐怖などを巧みに探り当て、
ひっかけていくのです。
劣等感と裏腹の、頑なな自尊心を持つ人は
要注意ですね。
まぁ、そういう人がみんな、
たちの悪い契約を持っているとは
限らないですけれどね。
いずれにせよ、
己の心に清々しい風が吹くように、
常に風通しよくして、堂々とお日様の下を
歩ける自分であるように。
既にそうでないと思う方も、
自分が逃げてきたものを引き受けることで、
転換していくことはできます。
自身のあらゆる側面を認め、愛し
抱きしめていくことで自身の本当の力の源に
つながっていきます。
そのつながりが取り戻せたなら、
外側に力を求めなくて済むようになります。
そうやって、本来ではない在り方の
こじれた諸々を、清算していくんですね。
だから、本当に自分を愛し、信頼し、
抱きしめていくことが、すべての癒しと調和の
基盤なのです。
どうかこのこと、
よくよく心に留めておいてください。