最近、知人の中である共通のパターンを
持った人がいるかも、ということに
気づきました。
そのことについて、あれこれ考えていたのですが、
なかなか面白いものが出てきたので
書いてみます。
ちなみに、それらの方同士は
互いに全く面識はなく、みなさん
心根の良い素敵な方たちです。
そして、以下の考察はあくまで
私の勝手な想像であり、
実際ご本人がどう感じておられるかは
全く別の話、というところ、念押ししておきます。
で、その共通するパターンというのが、
相手とコミュニケーションを取ろうとするとき、
すべて自分で一から十までをお膳立てして、
その通りに体験してもらうことで
相手を喜ばせようとする。
さらに、無意識か意識的にか、
そのことによって、相手も自分と同じように
感じて反応してほしい、あるいは、
自分が予想したような反応で
感動を分かち合いたい
という欲求がどこかにある。
というパターンです。
多分その方たちも、
頭では、相手は自分と同じではない
ということは十分にわかってるんですね。
でも、どこかで自分と同じ感性で
分かち合えないということに対して、
深い恐れや痛み、失望のようなものを
持っているのではないかな、
と感じるのです。
(と、あくまで私が勝手に感じているだけです)
そうした恐れや痛みがある故に、
ある方は相手を在るがままに見ることが
難しくなっているようだし、
(見てしまったら失望する
⇒失望の辛さは味わいたくない
⇒見たくない、見れない)
見れないので、
コミュニケーションが今一つ
かみ合わなくなったり、ぎこちなくなる
傾向があるように見受けられるのです。
そういうコミュニケーションの取られ方
をされる側としては、
一から十までお膳立てをされるのは
ある意味とても楽ですが、
コミュニケーションはキャッチボールですから、
自分の創造性を発揮する余地が全くないと、
とても窮屈に感じられます。
相手のお膳立てに100%自分を嵌め込まないと
いけない上に、相手の望むように反応
しなくてはいけないんじゃないか、
と感じられてしまうんですね。
極端なことを言うと、
その人の相手は自分でなくても
いいんじゃないか、って気にすら
なって来ます。
ある方と話していた時は、
その辺りの微妙な窮屈さが
何に由来するものなのか
まだよくわかっていなかったので、
自分がその方の話に乗れるような
レベルまで来ていないから、
うまく話が盛り上がるような
相槌が打てないのかな、
と思っていたのですが、
その方の相手の反応に対する
受容感度が実はものすごく狭かった
ということではなかったのかな、
と今では思っています。
言葉には出さなくても、
相手が何を受容するかは無意識にも
感じ取るものですからね。
故意に嫌われようとするのでなければ、
受容されない表現をわざわざ出すことはないし、
受容のフィールドのないところでは
どんな反応もそもそも湧き起らないでしょう。
だから、
一から十まで全部お膳立てされたものに乗る
というのは、実はとても窮屈でつまらない
ことなのです。
最近話題の映画「ボヘミアンラプソディ」の中で、
彼らの楽曲の中に観客も足踏みと手拍子で
参加するっていうコンセプトの曲が生まれる
シーンが出てきましたけれど、
私たちは、自分もそこに参加していることによって
全体の中の一部になり、そこに一体感と
親近感が生まれます。
人とのキャッチボールはまさにそれで、
自分の投げた球(エネルギー)を相手が
受け取り、
相手のエネルギーで球が返ってくることの中に、
気持ちが交流している実感と喜びがあるわけです。
完璧なお膳立ては、相手の投げ返す球に
乗せるエネルギーの状態まで指示されて
いるようなものです。
(そうでないと、その人ががっかりする
だろうことまでわかってしまう)
それでは、なにも自分でなくてもいい
ってなってしまいますね。
だから、お膳立てが完璧であればあるほど、
気持ちが引いていくのです。
ノリたいのにノレないんですね。
そういえば、昔行ったあるライブで、
演者は一生懸命乗せようとするのに
そうするほどに観客が氷のように
シ~ンとなっていくっていうのがありました。
今思えばこのパターンだったのかも。
(あまりにいたたまれなくて
この時はと途中で出ちゃいました)
こうなると、当人の方は
一生懸命頑張ったのに全然響かなかった
という失望を味わうか、
そこそこ相手に楽しんでもらえたとしても、
100%のお膳立てを毎回することに対して
疲れてしまうか、相手に不満を覚えたりも
するかもしれません。
相手も自分も楽しいコミュニケーションを
取りたいのなら、一方通行ではなくて、
あなたも相手のエネルギーを受け取らねば
なりませんし、相手をよく見なくては
ならないのです。
こういうパターンのある人は、
この辺りがおろそかになっている人が
多いかな、と思いました。