昨日は感情解放ワークショップでした。
ご参加くださった方、
ありがとうございました。
昨日もみっちり、掘り下げをしていった
のですが、日常の気になっている
いくつかの出来事を掘り下げていくと、
魂のとても深いレベルに絡んでいた
いくつかのスピリチュアルな契約や
宣言、誓いの類が出てきました。
最近、これらの話題を何回か書いてきて
いるのですが、あまり恐いことを言いたくは
ないと思いつつ、やはりどうしても
無視できないときがありますね。
溺れたものは藁をもつかむと言いますが、
自分が何をつかもうとしているのか、
よくよく見極める目は開いておかなければ
いけないな、と思うのです。
良からぬものは、人の無力感、不足感、
淋しさ、恐れなどの心の隙を巧みに
誘導して私腹を肥やします。
誰しもこうしたものは多かれ少なかれ
持っているでしょうが、それを
何か外側のもので埋めようとするのは
誤りです。
私たちは、本当はこうしたものを
自分で癒し、満たすことができます。
そのことを忘れてはなりません。
というより、むしろ疑ってはならない。
そのことを強く心に抱いて、
深く自身の深奥にある真の力の泉にこそ
それを求めるべきである、と思うのです。
信仰も、あらゆるツールやメソッドも、
このことをベースに置かない限り、
私たちの在り方を何かしら毒するものに
なりかねません。
外側に何らかの神や仏などを見て礼拝するとき、
その向こう側には必ず、自身深奥にいます
内なる神を見るべきなのです。
そして、どんなツールやメソッドを使おうと、
小手先で弄するのではなく、
深く自身の内なる神に軸を定めて
そこから使うべきです。
いつになく強くこのことを訴えるのは、
人の心の弱さが、どれだけの悲劇を生み、
その涙と血をすするものがいるのか、
ということを嫌と言うほど見るからです。
些細に見える出来事も、
ぐっと深く掘り下げていくと、
決して看過できない様相が現れてくることが
しばしばあります。
そういうものを見てしまうと、
もうそれはその人の選択だよね、
ってやんわり言って選んでもらうだけでは
いかんだろう、と思ってしまうのです。
どこまで介入すべきなのか、
私なりのラインはありますが、
最近はかなり強く言うことがありますね。
それで目が覚めないなら仕方ないですけれど。
今年は本当に多くの人が自身の真の力に
繋がっていくための仕事をする!と
私は決意しているので、
妥協はしないつもりですし、
どこまでそれを本気で追求していけるか、
チャレンジですね。
どうしたらそれができるようになるのか、
今までできなかったことを越えて、
できる自分になるための諸々を
一日一日、積み重ねていくつもりです。
起こる出来事は、なんであれ
なりたい自分になるための導きです。
見せられるものを受け取りながら、
自身の在り方を問うていくと、
本当に様々な気づきをいただきます。
それこそが教科書には載っていない、
自分だけの学びであり、
唯一無二の歩みになるんですね。
オリジナルであることを恐れては
いけません。
すべての人がオリジナルなのですから、
時に道を共に歩んだり、
袂を分かったりもするでしょう。
そうした出会いと別れの諸々に執着せず、
自身の軸をしっかりと据えて、
軽やかに、自由であるように。
何者をも拘束せず、
また自分を拘束させてはなりません。
自分自身と、深く深く対話するように。
心の隙に注意深く在れ。
そして、どんなネガティブと言われる感情も、
自分には受け止めて生きるだけの力がある
ということを覚えておくように。
胸を張って、堂々と生きる誇りと自由を
忘れないように。
ここがブレなければ、道を誤ることは
ありません。
あなたの歩みが、人間の尊厳と誇りで
輝くものでありますように。