今年は曜日の関係で中途半端な感じもしますが、
今日からお仕事という方もいらっしゃるのでしょう。
また一年の始まり、良いスタートを切れますように。
さて。
私もこの年末年始、割と忙しくも充実した
時間を過ごしていたのですが、
様々な方との語らいの中で、色々と
気づきを頂けた時間でもありました。
中でも、苦しみというものについて、
考えさせられるというか、
あとちょっとで何か気づけそうな何かが
ちらちらしている感じでした。
私は以前から自分が喜びよりも苦しみに
意識を引かれがちだということには
気づいていました。
元々ネガティブ人間でしたしね。
どうしても苦しみを棄ててはおけないし、
決して心地良いわけではないけれど、
気が付くとそちらばかりを意識してしまう傾向を
どうすることもできませんでした。
それが良いとか悪いとかではないのでしょうが、
それもどうなのだろう、と思う一方で、
苦しみを探求することで得た気づきや
何らかの能力も確かにありました。
で、私の身近にも
いつも苦虫を噛み潰したような顔をしながら
苦しみを抱え込んでいる人がいて、
ため息をつきながらもその人自身が
決してそれを手放そうとはしていないことを
あまり快く思っていない私がいました。
確かにその人のその姿は、
私自身のある側面を表していることには
気づいています。
私は自ら進んで、あまり心地良くはない
苦しみを抱え込んでいるのです。
なぜそうする必要があるのだろう?
と改めて問うてみると、
どうやら私は、この世界における苦しみ
というもの自体を探究したがっている
ようなのでした。
もしそれを手放してしまったら、
この世界のことがさっぱりわからなく
なってしまい、
自分は全くの外野で、傍観者のように
なって、この世界と関わりを持てなくなってしまう
と思っているようです。
つまり、この考え方からすると私は
苦しみを通してこの世界に触れている
ということになりますね。
人間は、苦しみを通してどんな思考をし、
言動を起こすのか、つぶさに観察し、
研究したいのかもしれません。
確かにそれは、非常に恐ろしいと同時に
興味深いことでもあります。
私の人生の今の段階で、ある程度その探求は
成果を見せて、できるようになったこと、
気付けたこともたくさんあります。
まだまだのところはありますが、
いったんこの辺りでこの在り方を今後
どうしていくのか、改めて問うてみたときに、
するかどうかは別として、
違う方向性もある、ということは
考えてみてもいいだろうと思ったのでした。
つまり、自ら抱え込んだ苦しみを
手放してみたときに、何が起こるだろう?
というのを探求する道のことです。
確かに私は、「わざと、自ら進んで
苦しみを持っている」と感じられる
ところがあり、
だとしたら、意識的に手放す選択も
できるはずなんですよね。
今後も苦しみを探究していく方向性と、
手放した時の方向性で何がどう違うのか。
比べてみようとしたのですが、
そもそも前者はもういいや、という感じで
あまり気乗りがしないようでした。
後者にすると、
苦しみを抱え込んでいるのは、
他でもないその人自身である、
という視点が際立って見えてきます。
あることについて、
苦しんで見せてもいいけれど、
別にそうしなくてもいいよね
っていう選択ができてしまうというか。
以前はこういう視点、頭ではわかっていても、
気持ちの部分がどうしても納得できなくて、
そんなの屁理屈じゃん!って思ってました。
そういうあなたにはできるのかもしれないけれど、
私にはできないって。
確かにその時の私ではできなかったんですね。
でも今は気持ちの抑圧でも切り捨てでもなくて、
それができてしまう可能性も見えてきた、
というところでしょうか。
当時と何が変わったんでしょうね。
苦しみに耽溺するカルマが落ちていったのか、
ある程度予定していた探求のプロセスが
進んで片付いたからなのか。
というわけで、新たな可能性が開けてきたので、
取り敢えず苦しみを抱え込むのをやめて
みようと思います。
そう宣言をして、自分の体のエネルギーの
変化をチェックしてみました。
すると、癖になっているので無意識で
握りしめているところもあるのですが、
そこに気づいて意識的に手放すように
してみたら、
その瞬間から体の重さや痛みなどが抜けて
軽く、視界も明るくなったように感じました。
なんだか、重たい鎧を脱いだような感じです。
いっぺんに全部はクリアにならないでしょうから、
気づきを向けつつ、選択を繰り返して
しばらく様子を見てみようと思います。