今日は最近考えていることを整理するため、
まずは徒然なるままに書き出してみます。
何らかの鋭敏すぎる感性を持っている人は、
その鋭敏さゆえにしばしば生き辛さを
感じていることでしょう。
生まれながらにその状態でいたとしたら、
その人はその感性と自身の人生を
どう折り合いをつけていくか、
人生の初めから、苦しみつつ模索していくことを
必然的に運命づけられることになります。
一方で、鋭敏な感性を身につける種を
持って生まれつつも、最初からそれが
花開いているわけではない人もあります。
しばしばそういう人は、人並みにも達しない
という嘆きとともに、努力を重ねて
感性を磨き上げていくプロセスを歩みます。
前者は天才の、後者は凡人の歩み
とざっくり括られるかもしれませんが、
どちらであっても、それゆえの苦悩は
ついて回るものですね。
私なんかはもう本当に後者の方で、
幼少期から自分の愚鈍さ、不器用さを
嘆きつつ、ここまで来ております。
他の人が容易く理解し、こなせていることが
自分にはものすごく難しい。
その惨めさ、悲しさ、無力感、劣等感、
取り残されたような無価値観を味わいながら、
這いつくばって歩んできたなぁと思います。
なので、突出した天才的な感性ゆえの
苦悩や孤独というのはわからないけれど、
愚鈍であっても苦悩や孤独というのは
やっぱりあるので、
苦悩や孤独に天才も凡人以下もないのだな、
なんて思ったりしました。
まぁそれはそれ。
では両者にはいったいどんな違いが
あるだろうか、と考えてみると、
突出した感性の天才は、
その才能故に称賛もされるでしょうが
嫉妬もされるかもしれません。
そしてまた、自分と同じようにものごとを捉え、
感じる人が周囲にいないために、
誰にも理解されず、分かち合うことも
できないという孤独と、
他の人が気づかないことまでわかってしまうので、
ある種、他の人のデリカシーのなさに
狂おしいほどに自分を苛まれるような
感覚を常に味わっているかもしれない。
ゆえに、その鋭敏すぎる感性を
いかにコントロールして、
自分自身を保つのか、ということを
身に着けることが課題になるでしょう。
凡人からすると羨ましいくらいですが、
足して2で割ればきっとちょうどいいのに、
そういう風にはなっていないのですね。笑
一方で、私のような凡愚の輩は、
しばしば劣等であるがゆえに人から
軽んじられ、そしられたりする屈辱感を
味わいつつ、
いかにできないことができるようになるのか、
ということを、できる人にはない視点で
研究したりします。
自分に何ができて、何ができないのか、
できないのであれば、できることから
道を探すしかないわけです。
そうする中から、なぜできないのか、
という理由をより詳細に知るようになったり、
誰にもまねできない自分だけの
オリジナルのスタイルを編み出したりします。
私のお伝えしている感情解放ワークは
まさにそれで、
簡単に師の教えを実践できなかったが故の
探究から生まれたものです。
そしてそれを続けているうちに、
それまでの自分には想像もできなかった
様々なことが付随してできるようになっていたり、
いつの間にか、ワークも進化していたりします。
私について言えば、これを
地から這い上がるようにして天に向かう歩み
と表現するなら、
天才は、天から地に降りてくるような歩み、
あるいは、地に降りてくることを諦めて、
そのギフトを生かして、ただ一人、
さらなる高みを目指して探求していく歩み、
と言えるかもしれません。
どの歩みが良いとか悪いとかではなく、
それぞれに苦悩があり、また可能性が
あるわけですね。
道が見えないということもあるけれど、
それは道がないということではなくて、
まだ見つけていない道がどこかにある
ということなんだと思います。
それは、とことん自分に向き合って、
自分で見つけるしかないわけです。
だから、当然自分の人生から退避していたら、
ますます道なんて見えてきません。
地を這うような人生でも、
とことんそこで味わうものを味わって、
目を皿のようにして自分の道を
探究すべきなんだろうと思うのです。
見ようとすれば、拓こうとすれば
糸口は必ず見つけられるものだと思います。
全ての人の歩みに、祝福を。